板垣退助(いたがきたいすけ)〔一〕
乾退助(いぬいたいすけ)は、同じ土佐藩士の後藤象二郎とは幼な馴染み、坂本龍馬等の郷士よりも身分が上で恵まれた扱いを受けていたが、後に板垣家と坂本家は親戚関係となっている。
少年期の退助(たいすけ)は素行が悪くて藩からニ度処罰を受けており、一時は家督相続すら危ぶまれたが、父・正成の死後、家禄二百二十石に減ぜられて家督相続を許される。
その後、退助(たいすけ)は江戸で西洋式兵学を学び、免奉行や側用役、大監察、参政など藩の要職を歴任、傍ら尊王攘夷論に傾斜して武力倒幕を主張している。
戊辰戦争では迅衝隊総督として土佐藩兵を率い、東山道先鋒総督府参謀の肩書きで従軍する。
乾(いぬい)氏を名乗って居た退助(たいすけ)が、板垣氏を名乗ったには「岩倉具視らの助言に拠る」と伝えられて居る。
東山道先鋒総督府参謀である退助(たいすけ)が、天領である甲府城の掌握目前の美濃大垣に向けて出発した。
この時甲斐を守って居たのは大久保大和(近藤勇)の率いる新撰組だった。
ちょうど千八百六十八年(慶応四年)二月十四日が甲斐にゆかりが在る板垣信方の没後三百二十年にあたる。
岩倉具視らは、甲斐国民衆の支持を得る為に「乾(いぬい)氏が甲斐源氏流・板垣氏の後裔である」と家伝が在るを採り、退助(たいすけ)は板垣氏を名乗った。
この策が講じて、甲州勝沼の戦いで東山道先鋒の官軍は新撰組を撃破している。
戊辰戦争の一部・東北戦争では、三春藩や二本松藩・仙台藩・会津藩を攻略するなどの軍功に拠って退助(たいすけ)は賞典禄・一千石を賜っている。
板垣退助(いたがきたいすけ)は、千八百六十八年(明治元年)十二月に土佐藩・陸軍総督となり、家老格に進んで家禄六百石に加増される。
翌千八百六十九年(明治二年)、退助(たいすけ)は木戸孝允、西郷隆盛、大隈重信と共に参与に就任する。
千八百七十年(明治三年)に高知藩の大参事となり「人民平均の理」を発し、千八百七十一年(明治四年)に参議となる。
退助(たいすけ)は千八百七十三年(明治六年)に征韓論を主張するが欧米視察(岩倉使節団)から帰国した岩倉具視らの欧米諸国家との国際関係を配慮した慎重論に敗れる。
新政府は真っ二つに分裂し、退助(たいすけ)は西郷隆盛、後藤象二郎、副島種臣らと伴に下野(明治六年政変)した。
【板垣退助(いたがきたいすけ)〔ニ〕】に続く。
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