江藤新平(えとうしんぺい)〔ニ〕
千八百五十九年(明治二年)、江藤新平(えとうしんぺい)は維新の功により賞典禄百石を賜っている。
戊辰戦争が一段落した後、新政府が設置した江戸鎮台に於いて新平(しんぺい)は長官の下の六人の判事の一人として会計局判事に任命され、民政や会計、財政、都市問題などを担当する。
七月には新平(しんぺい)の東京遷都の献言が通って明治天皇が行幸して、江戸は東京と改称される。
千八百七十年(明治三年)一月には佐賀に帰郷して着座(準家老)に就任して藩政改革を行うが後に中央に呼び戻され、同年十一月に太政官中弁となる。
その十二月、新平(しんぺい)は虎ノ門で佐賀藩の卒族に襲撃されて負傷する。
千八百七十一年(明治四年)ニ月に、新平(しんぺい)は制度取調専務として国家機構の整備に従事し、大納言・岩倉具視に対して三十項目の答申書を提出する。
近代的な集権国家と四民平等を説き、国法会議や民法会議を主催して箕作麟祥らとともに民法典編纂に取り組む。
文部大輔、左院副議長、司法省が設置されると、新平(しんぺい)は千八百七十二年(明治五年)には司法卿、参議と数々の役職を歴任する。
新平(しんぺい)は学制の基礎固め、四民平等、警察制度整備など近代化政策を推進し、特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。
官吏の汚職に厳しく、新政府で大きな力を持っていた長州閥の山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及する。
予算を巡る対立も絡み、新平(しんぺい)は山縣有朋と井上馨の二人を一時的に辞職に追い込んだ。
その一方で欧米的な三権分立の導入を進める新平(しんぺい)に対して行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持つ政府内の保守派からは激しく非難された。
また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、新平(しんぺい)は大蔵省との確執を招いた。
千八百七十三年(明治六年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した政変(明治六年の政変)で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣(そえじまたねおみ)と共に十月に下野する。
千八百七十四年(明治七年)一月十日に愛国公党を結成し十二日に民撰議院設立建白書に署名し帰郷を決意する。
大隈・板垣・後藤らは新平(しんぺい)が帰郷する事は大久保利通の術策に嵌るものである事を看破し、慰留の説得を試みる。
しかし新平(しんぺい)は、この慰留には全く耳を貸さず翌十三日に船便で九州へ向かう。
新平(しんぺい)は直ぐには佐賀へ入らず、ニ月二日、長崎の深堀に着きしばらく様子を見る事となる。
一方、大久保は新平(しんぺい)の離京の知らせを知った一月十三日には佐賀討伐の為の総帥として宮中に参内し、二月五日には佐賀に対する追討令を受けている。
勿論この時点では、佐賀側では蜂起の決起さえ、いやそれ処か新平(しんぺい)は佐賀に入国さえしていなかった事に留意する必要がある。
この事から新平(しんぺい)は、「完全に大久保の掌中に在った」と言えるだろう。
二月十一日、新平(しんぺい)は佐賀へ入り、憂国党の島義勇と会談を行い十二日、佐賀征韓党首領として擁立された。
そして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を計画する事態になる。
二月十六日夜、憂国党が武装蜂起し、不平士族による初の大規模反乱である「佐賀の乱(さがのらん)」が勃発する。
佐賀軍は県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村通俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、その約半数に損害を与えて遁走させた。
やがて大久保利通が指揮直卒する東京、大阪の鎮台部隊が陸続と九州に到着するも、佐賀軍は福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。
政府軍は、朝日山方面へ野津鎮雄少将の部隊を、三瀬峠付近へは山田顕義少将の部隊を前進させた。
朝日山方面は激戦の末政府軍に突破されるが、佐賀軍の士気は高く三瀬峠方面では終始佐賀軍が優勢に戦いを進めた。
また朝日山を突破した政府軍も佐賀県東部の中原付近で再び佐賀軍の激しい抵抗にあい、壊滅寸前まで追い込まれている。
しかし政府軍の装備が遥かに新しい上に、司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って士卒を大いに励まし戦い辛うじて勝利する。
この後も田手、境原で激戦が展開されるが政府軍の強力な火力の前に、装備に劣る佐賀軍は敗走する。
新平(しんぺい)は征韓党を解散して脱出し、三月一日鹿児島・鰻温泉・福村市左衛門方に湯治中の西郷隆盛に会い、薩摩士族の旗揚げを請うが断られた。
続いて三月二十五日高知の林有造・片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くがいずれも容れられなかった為、岩倉具視への直接意見陳述を企図して上京を試みる。
しかしその途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され佐賀へ送還される。
手配写真が出回っていた為に速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は新平(しんぺい)自身が千八百七十二年(明治五年)に確立したものだった。
皮肉にも、手配制度の制定者・新平(しんぺい)本人が被適用者第一号となったのである。
新平(しんぺい)は急設された佐賀裁判所で司法省時代の部下であった河野敏鎌によって裁かれ、「除族の上梟首の刑」を申し渡されて嘉瀬川から四キロメートル離れた千人塚で梟首処刑された。
江藤新平(えとうしんぺい)の朝臣としての正式な名のりは、坂東八平氏(ばんどうはちへいし)流・千葉常胤の末裔として平胤雄(たいらのたねお)である。
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