江藤新平(えとうしんぺい)〔一〕
肥前国佐賀郡にあった外様・佐賀藩(さがはん)は、肥前藩(ひぜんはん)とも言い鍋島氏が藩主で在った事から鍋島藩(なべしまはん)と言う俗称もある。
彼ら維新の英雄に名を連ねて居る連中は押し並べて聡明で、しかも「従来の定説」に囚われ無い「先進を模索する」感性を持っていた。
「従来の定説」を否定する事は既存のルールを無視する事であるが、だからこそ明治維新は成立した。
江藤新平(えとうしんぺい)は、「維新の十傑」に数えられる人物である。
江藤新平(えとうしんぺい)は、肥前国佐賀郡八戸村(現在の佐賀県佐賀市八戸)に佐賀藩士・江藤胤光(えとうたねみつ)と妻・浅子の長男として生まれる。
父は「手明鑓(てあきやり)と言う身分の下級武士で在った」とされ、江藤家は鎌倉初期に肥前小城郡晴気保の地頭を務めた鎌倉御家人・千葉常胤の末裔を称する。
新平(しんぺい)は、千八百四十八年(嘉永元年)に藩校の弘道館へ入学し内生(初等中等)課程は成績優秀で学費の一部を官給された。
所が、父・胤光(たねみつ)が職務怠慢の咎により郡目付役を解職・永蟄居の処分となった為に生活が困窮し外生課程に進学できずに止まる。
この頃、新平(しんぺい)は窮乏生活を強がって「人智は空腹よりいずる」を口癖にしたと言う。
新平(しんぺい)は、弘道館教授で儒学・国学者で在った枝吉神陽(えだよししんよう)の私塾に学び、神道や尊皇思想に影響される。
尚、大隈重信(おおくましげのぶ)も、枝吉神陽(えだよししんよう)の私塾に学んで新平(しんぺい)とは同門である。
千八百五十年(嘉永三年)に枝吉神陽(えだよししんよう)が義祭同盟を結成すると、新平(しんぺい)は大隈重信・副島種臣・大木喬任・島義勇らと伴に参加した。
江戸幕府後期のこの時期、多くの外国船が日本近海へ出没する。
アメリカのペリー艦隊やロシアのプチャーチン艦隊などが来航して通商を求めるなどの時勢の影響を新平(しんぺい)はモロに受ける。
新平(しんぺい)は、千八百五十六年(安政三年)に意見書である「図海策」を執筆、また千八百五十七年(安政四年)には藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務め、結婚もしている。
千八百六十二年(文久ニ年)新平(しんぺい)は脱藩し京都で活動し、長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)や公家の姉小路公知らと接触する。
その時はニヶ月ほどで帰郷し通常脱藩は死罪であったが、新平(しんぺい)の見識を高く評価した藩主・鍋島直正の直截裁断により永蟄居(無期謹慎)に罪を軽減されたとされる。
蟄居後は寺子屋師匠などを務め、同士との密かな交流や幕府による長州征伐(幕長戦争)での出兵問題では藩主・直正への献言を行うなど政治的活動は続けている。
十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還を行って幕府が消滅した千八百五十七年(慶応三年)の十二月に新平(しんぺい)は蟄居を解除され、郡目付として復帰する。
薩摩藩、長州藩は公家の岩倉具視と結び、千八百六十八年(明治元年)に王政復古の大号令を行う。
新政府が誕生すると佐賀藩もこれに参加し、新平(しんぺい)は副島種臣とともに京都に派遣される。
戊辰戦争で新平(しんぺい)は東征大総督府軍監に任命され、土佐藩士の小笠原唯八とともに江戸へ偵察に向かう。
薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決定するや、新平(しんぺい)は城内の文書類を接収する。
さらに京都へ戻り、大木喬任と連名で岩倉具視に対して江戸を東京と改称すべき事(東京遷都)を献言する。
旧幕臣らを中心とする彰義隊が抵抗活動をしていた問題では、新平(しんぺい)は大村益次郎らとともに討伐を主張している。
新平(しんぺい)は官軍の軍監として戊辰戦争の一部・上野戦争で戦い、彰義隊勢を上野寛永寺周辺に追い詰め、さらに佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃する戦術などにより彰義隊は瓦解する。
【江藤新平(えとうしんぺい)〔ニ〕】に続く。
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