大隈重信(おおくましげのぶ)〔ニ〕
大隈重信(おおくましげのぶ)は千八百八十二年(明治十五年)三月、十年後に予定されていた国会開設に備え、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄(龍渓)らを結集して小野梓とともに立憲改進党を結成する。
同じ年の十月、重信(しげのぶ)は小野梓や高田早苗らと「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を謳って東京専門学校(現早稲田大学)を、東京郊外(当時)の早稲田に開設する。
立憲改進党を結成した重信(しげのぶ)だったが、二年後の千八百八十四年(明治十七年)、立憲改進党の解党問題の際に河野敏鎌らとともに改進党を一旦離党している。
千八百八十五年(明治十八年)十二月、内閣制度移行に際し初代内閣総理大臣に伊藤博文が就任する。
その二年後の千八百八十七年(明治二十年)、重信(しげのぶ)は伯爵に叙された。
自ら同様英語力を重視する内閣総理大臣・伊藤博文は、重信(しげのぶ)の外交手腕を評価して不平等条約改正の為、政敵である重信(しげのぶ)を外務大臣として選ぶ。
伊藤博文の要請に拠り、千八百八十八年(明治二十一年)ニ月より重信(しげのぶ)は外務大臣に就任した。
同年、黒田清隆が組閣すると重信(しげのぶ)は外務大臣を留任するが、外国人判事を導入すると言う条約案が反対派の抵抗に遭う。
翌千八百八十九年(明治二十ニ年)、重信(しげのぶ)は国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受け、右脚を切断する負傷を負い外務大臣を辞職した。
七年後の千八百九十六年(明治二十九年)「松隈内閣(しょうわいないかく)」と呼ばれる第二次松方内閣で再び外相に就任するが、薩摩勢と対立して千八百九十七年(明治三十年)に辞職した。
千八百九十八年(明治三十一年)六月に重信(しげのぶ)は板垣退助らと憲政党を結成する。
同年六月三十日に重信(しげのぶ)は、「隈板内閣(わいはんないかく)」と俗に言う薩長藩閥以外で初の内閣総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組閣した。
しかし憲政党内の旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じ、また文相・尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職すると、後任人事をめぐって対立はさらに激化する。
後任文相に旧進歩党の犬養毅が就いた事に不満を持った旧自由党の星亨は、一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成した。
結局、組閣から僅か四ヵ月後の十一月八日、内閣は総辞職する羽目となり、重信(しげのぶ)は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いる事となる。
千九百七年(明治四十年)、重信(しげのぶ)は一旦政界を引退し、自らが設立していた早稲田大学の総長へ就任する。
しかし重信(しげのぶ)は、第一次護憲運動が興ると政界に復帰する。
そして千九百十四年(大正三年)にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受けて、二度目の内閣(第二次大隈内閣)を立憲同志会、公友倶楽部、及び中正会で組織する。
同年(大正三年)七月、第一次世界大戦が起こり、第二次大隈内閣は中国大陸での権益確保を求めて、八月二十三日に対独宣戦布告をおこなう。
翌千九百十五年(大正四年)一月には、重信(しげのぶ)は外相・加藤高明と共に対華二十一ヶ条要求を提出した。
内相・大浦兼武の汚職事件(大浦事件)が起こると、八月には重信(しげのぶ)自身が外務大臣を兼任して内閣を改造し心機一転を図るも政権は次第に国民の支持を失って行く。
更に政府に対する元老の圧迫が激しさを増し、千九百十六年(大正五年)十月、終(つ)いに内閣は総辞職、事後重信(しげのぶ)も政界から完全に引退した。
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