大隈重信(おおくましげのぶ)〔一〕
肥前国佐賀郡にあった外様・佐賀藩(さがはん)は、肥前藩(ひぜんはん)とも言い鍋島氏が藩主で在った事から鍋島藩(なべしまはん)と言う俗称もある。
彼ら維新の英雄に名を連ねて居る連中は押し並べて聡明で、しかも「従来の定説」に囚われ無い「先進を模索する」感性を持っていた。
「従来の定説」を否定する事は既存のルールを無視する事であるが、だからこそ明治維新は成立した。
大隈重信(おおくましげのぶ)は佐賀城下会所小路(現:佐賀市水ヶ江)に、佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれ、幼名は八太郎である。
大隈家は、知行三百石を食(は)み石火矢頭人(いしびやとうにん/砲術長) を務める上士の家柄で在った。
重信(しげのぶ)は七歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である「葉隠」に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、千八百五十四年(安政元年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。
千八百五十五年(安政二年)南北騒動をきっかけに重信(しげのぶ)は弘道館を退学、後に復学を許されるも戻らず枝吉神陽(えだよししんよう)から国学を学び、神陽が結成した尊皇派の義祭同盟にも参加した。
千八百五十六年(安政三年)、重信(しげのぶ)は佐賀藩蘭学寮に転じている。
五年後の千八百六十一年(文久元年)には、重信(しげのぶ)は時の藩主・鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。
重信(しげのぶ)は長州藩への協力および幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するには至らなかった。
そして千八百六十五年(慶応元年)、佐賀藩が宣教師グイド・フルベッキを校長に招いて佐賀藩校・英学塾「致遠館」を開校する。
長崎の五島町に在った諌早藩士・山本家屋敷を改造した英学塾「致遠館」にて、重信(しげのぶ)は英語を学びながら副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。
この時、重信(しげのぶ)は新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、大きく影響を受けると伴に京都や長崎に往来して尊王派として活動した。
千八百六十七年(慶応三年)、重信(しげのぶ)は副島と共に将軍・徳川慶喜に大政奉還を勧める事を計画し、脱藩して京都へ赴(おもむ)いた。
しかし事は露見に及び、捕縛の上、佐賀に送還されて一ヵ月の謹慎処分を受けた。
千八百六十八年(明治元年)、明治維新に際して重信(しげのぶ)は薩摩藩・小松帯刀の推挙により徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられる。
重信(しげのぶ)は、グイド・フルベッキから学んだ英語を駆使し、キリスト教禁令についてのイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮する。
千八百六十九年(明治二年)に成ると、重信(しげのぶ)は会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。
翌千八百七十年(明治三年)に参議に補され、三年後の千八百七十三年(明治六年)には大蔵省事務総裁、五ヶ月後には参議兼大蔵卿になった。
新政府で力を持った重信(しげのぶ)の下には、彼の私邸を「築地梁山泊」と称し、伊藤博文や井上馨と言った若手官僚が集まり政治談義にふけった。
重信(しげのぶ)は木戸孝允と結んで近代国家の早期建設を謳い、大久保利通らを牽制した。
殖産興業政策を推進し征韓論には反対し、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった。
その後の千八百八十一年(明治十四年)、開拓使官有物払下げを巡りかつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立、重信(しげのぶ)自身の財政上の失政もあり、十月十二日、参議を免官となった。
この「明治十四年の政変」で、重信(しげのぶ)は辞表を提出し野に下った。
【大隈重信(おおくましげのぶ)〔ニ〕】に続く。
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