枝吉神陽(えだよししんよう)
神陽(しんよう)の門下からは、明治維新に大きな影響を与えた佐賀藩出身の人材・実弟の副島種臣の他、大隈重信、江藤新平、大木喬任、島義勇ら多数輩出している。
つまり肥前・佐賀藩が、明治維新を推進した藩閥政治・薩長土肥と呼ばれる藩の一つとして一郭を占める勢力を築いたには神陽(しんよう)の存在が大きかったのである。
また神陽(しんよう)は、水戸の藤田東湖と「東西の二傑」と並び称された江戸時代後期から幕末に活躍した佐賀藩の思想家、教育者、国学者である。
神陽(しんよう)は佐賀藩の藩校・弘道館の教授で在った佐賀藩下士(三十石)・枝吉南濠(えだよしなんごう)の長男として生まれ、幼児期より神童と賞される。
神陽(しんよう)二十歳の時には江戸幕府直轄の学問所・昌平黌(しょうへいこう/昌平坂学問所)に学び、ほどなく実力を認められて舎長に推されている。
学問所・昌平黌(しょうへいこう)に在って、神陽(しんよう)は漢学に偏重した内容に異議を唱え、国学を学ぶ事を認めさせた。
また早くから儒教や朱子学の教えに疑問を抱いており、佐賀藩の哲学である「葉隠をも否定した」といわれる。
二十六歳で佐賀も帰郷してからは、弘道館の教諭や什物方などを務める傍ら、父・南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ勤王運動(尊皇運動)を行った。
千八百五十年に、神陽(しんよう)は「義祭同盟」を結成、天皇を中心とした政治体制である律令制などの知識を伝授するなど活動を活発にする。
神陽(しんよう)は「義祭同盟」をもって、藩論を尊王倒幕に向かわせようとしたが、藩主・鍋島直正を動かす事は出来ず失敗している。
「義祭同盟」の結成から十三年後の千八百六十三年、幕府が日米修好通商条約に拠る開港地選定で騒がしい頃、神陽(しんよう)は妻と伴にコレラに罹って四十一歳と言う若さで亡くなった。
神陽(しんよう)が亡くなったのは、徳川慶喜が睦仁(むつひと)天皇に大政奉還を為した千八百六十七年(慶応三年)の四年前の事だった。
只、「義祭同盟」に名を連ねた大隈重信、江藤新平、大木喬任、島義勇、副島種臣らの秀才群れは、枝吉神陽(えだよししんよう)の学者としての実力を証明している。
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