岩倉使節団(いわくらしせつだん/岩倉遣欧使節団)
千八百七十一年十二月二十三日(明治四年十一月十二日)から千八百七十三年(明治六年九月十三日)まで、政府首脳陣(大納言・参議)や留学生を含む総勢百七名で構成された二年間近くに及ぶ大使節団である。
元々、大隈重信の発案による小規模な使節団を派遣する予定で在ったが、政治的思惑などから大規模な岩倉使節団(いわくらしせつだん)となった。
横浜港を船で出発して太平洋を渡り、サンフランシスコに上陸、アメリカ大陸を横断しワシントンD.C.を訪問したが、アメリカには約八ヶ月もの長期滞在となってしまう。
その後、使節団は大西洋を渡り八ヵ月ほど費やして意欲的にヨーロッパ各国を訪問、ヨーロッパでの訪問先は十二ヵ国に及んだ。
帰途は地中海からスエズ運河を通過し、紅海を経てアジア各国に入港しつつ短期歴訪しながら日本に向かった。
大納言・岩倉具視、そして木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳ら参議クラスの政府のトップが長期間政府を離れ外遊すると言うのは異例である。
だが、新リーダー達が「直に西洋文明や思想に触れた」と言う経験が彼らに与えた影響は新国家の指針に反映されたと評価される。
使節団に帯同した留学生も、帰国後に政治、経済、教育、文化など様々な分野で活躍し、日本の文明開化に大きく貢献した。
しかし一方では権限を越えて条約改正交渉を行おうとした事による留守政府との摩擦、外遊期間の大幅な延長、木戸孝允と大久保利通の不仲などの政治的な問題を引き起こしてもいる。
帰国については当初予定から大幅に遅れ、出発から一年十ヶ月後の千八百七十三年(明治六年九月十三日(明治六年九月十三日)、出発時と同じ横浜港に帰着した。
留守政府では朝鮮出兵を巡る征韓論が進められていて、使節団帰国後に欧米諸国家との国際関係を配慮した慎重論の使節団組と留守政府組とで参議の意見が割れる。
岩倉具視らの慎重論に敗れた留守政府組は納まらず、西郷隆盛を始め板垣退助、江藤新平、後藤象二郎、副島種臣など参議五人が下野するなど「明治六年の政変」となった。
幕末~明治維新・人名と事変の周辺記事なら【クリックリスト】がお薦めです。
【第六巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
【このブログの一覧リンク検索リスト】=>【日本史検索データ】
<=このブログのランキング順位確認できます。クリック願います(ランキング参戦中)。★未来狂 冗談の公式HP(こうしきホームページ)
未来狂冗談のもうひとつの政治評論ブログ「あー頭にくる」<=このブログのランキング順位確認できます。by mmcjiyodan | 2012-07-23 14:57