上洛(じょうらく)の意味
続いて七百九十四年(延暦十三年)に長岡京から平安京へ遷都した事に始まる千年の都(首都)を主に平安後期から京都と呼ぶ。
上洛(じょうらく)とは、当時の首都である京都に入る事を意味する語である。
京の都が中華帝国・唐の古都・「洛陽」になぞらえた雅称として「洛陽」「京洛(けいらく)」などと呼ばれた。
京都に入る事を「上洛」と言うのは、京都が造営される際に中華帝国魏王朝の都・洛陽(らくよう/中文=ルウヤン)をモデルにした所から都に入る=「上洛(じょうらく)」と表現された。
この事から、狭義では、室町時代末期(戦国時代)に、京都に居る室町幕府の将軍を保護する事を意味し、結果として全国支配に必要な権威をもたらすとされた。
過って嵯峨天皇(第五十二代天皇/桓武天皇第二皇子/平城天皇実母弟)が、平安京の西側(右京)を唐の首都である「長安」、東側(左京)を唐の副都である「洛陽」と名付けた。
しかし当時、「長安」である右京は居住に適さない湿地が多かった事などから平安時代の後半には既に廃れ、市街地は「洛陽」である左京だけとなった。
この為、京都を「洛陽」と呼ぶようになった。
その為に、京都へ上る事は「上洛」とも称され、広義においては現在の「上京」と同様の意味で用いられていた。
特に戦国期に入ると、「上洛」は天皇一族の住まい(御所)と将軍の住まい(御所)を庇護する有力大名の都入りを意味するようになる。
つまり三好三人衆以来の、軍事力を誇示して実権を握る権力」の方程式が「上洛」だった。
「上洛」の対義語に、下洛(げらく)がある。
下洛(げらく)とは、京都を離れる事で「都落ち」とも言う。
また下洛(げらく)には、上洛と言う煌(きらびやか)びやかなイメージとは逆に、落ちぶれた有様を喩(たと)える事もある。
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皇統と鵺の影人
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