張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)〔一〕
しかし張作霖(ちょうさくりん)の野望は、暗殺に拠って潰(つい)えてしまった。
正直、張作霖(ちょうさくりん)の暗殺から満州国建国までの軌跡を辿ると、とても卑怯な事はしない筈の武士道の国の皇軍・関東軍は手段を選ばぬ謀略の軍隊だった。
「国益」と言えば、何でも通る様な風潮の時代だった。
この謀略について、果たして関東軍司令部とその参謀達が純粋に「国益」を想って始めた事だろうか?
幾ら綺麗事の大儀名分を並べても人間には金・地位・名誉などの欲があり、何らかの得るものがなければ熱心に行動はしない。
現在の官僚達のシロアリぶりでも判る通り、頭の良い人間ほど知恵を使って自らの得を得る事を考える。
或いは自らの「野望」や「財閥との癒着の果て」に、将兵を巻き込んで始めた事なのか、多分に怪しいものである。
張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、千九百二十八年(昭和三年)六月四日、関東軍に拠って奉天軍閥の指導者張作霖が暗殺された事件である。
「奉天事件」、「皇姑屯事件」とも言われる張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)は、終戦まで事件の犯人が公表される事はなく、日本政府内では「満洲某重大事件」と呼ばれていた。
その「満州某重大事件」が「張作霖爆殺事件」 として表に出るのは、十七年後の太平洋戦争(第二次世界大戦)の敗戦を待たなければ成らなかった。
しかし嘆かわしい殊に、そのれっきとした資料が存在するにも関わらず、「ソ連及び中共の謀略説」を主張する連中が後を絶たない。
元々張作霖(ちょうさくりん)は、ロシアから日本に転向したスパイで、日本の支援を得て精力を拡大した。
その経緯(いきさつ)だが、千九百四年(明治三十七年)に日露戦争が勃発し、東三省(中国の北東地方)は戦場となった。
馬賊・張作霖(ちょうさくりん)はロシア側のスパイとして活動し、大日本帝国陸軍に捕縛される。
しかし張作霖(ちょうさくりん)に見所を認めた陸軍参謀次長・児玉源太郎の計らいで処刑を免れた。
この時、児玉の指示を受けて張作霖の助命を伝令したのが、後に首相として張と大きく関わる事となる田中義一(当時は少佐)である。
その後、馬賊・張作霖は日本側のスパイとしてロシアの駐屯地に浸透し、多くの情報を伝えた。
馬賊出身で軍閥に成長した張作霖は、日露戦争で協力した事から日本(大日本帝国)の庇護を受け軍閥に成長している。
日本の関東軍による支援の下、袁世凱北京政府・安徽派の督理湖北軍務(いわゆる湖北将軍)・段芝貴(だんしき)を失脚させて満洲に於ける実効支配を確立し、当時最も有力な軍閥指導者の一人になっていた。
張作霖は日本の満洲保全の意向に反して、中国本土への進出の野望を逞しくし、千九百十八年年(大正七年)三月、段祺瑞(だんしき)内閣が再現した際には、長江奥地まで南征軍を進めた。
千九百二十年八月の安直戦争の際には、張作霖は直隷派を支援して勝利する。
しかしまもなく直隷派と対立し、千九百二十ニ年、第一次奉直戦争を起こして敗北すると、張作霖は東三省(中国の北東地方)の独立を宣言し、日本との関係改善に留意する事を声明した。
張作霖は鉄道建設、産業奨励、朝鮮人の安住、土地商祖などの諸問題解決にも努力する姿勢を示したが、次の戦争に備えるための方便にすぎなかった。
千九百二十四年に成ると、孫文らの中国国民党と毛沢東らの中国共産党の間に結ばれた協力関係の第一次国共合作が成立する。
第一次国共合作当時の諸外国の支援方針は、奉天軍(張作霖)を日本が、直隷派を欧米が、中国国民党内共産党をソ連が支持と色分けられる。
千九百二十四年(大正十三年)の第二次奉直戦争で張作霖は馮玉祥(ふうぎょくしょう)の寝返りで大勝し、翌年、張の勢力範囲は長江にまで及んだ。
千九百二十五年(大正十四年)年十一月二十二日、最も信頼していた部下の郭松齢(かくしょうれい)が叛旗を翻し、張作霖は窮地に陥った。
関東軍の支援で窮地を脱する事ができたが、約束した商租権の解決は果たされなかった。
郭松齢(かくしょうれい)の叛乱は、馮玉祥(ふうぎょくしょう)の使嗾(しそう/仕向ける・そそのかす)に拠るもので、馮の背後にはソ連がいた。
その為、張作霖は呉佩孚(ごはいふ)と連合し、「赤賊討伐令」を発して馮玉祥の西北国民軍を追い落とした。
千九百二十七年四月に張作霖は北京のソビエト連邦大使館を襲撃し、中華民国とソ連の国交は断絶した。
広東に成立した国民政府(国民党)の北伐で直隷派が壊滅(千九百二十六年)する。
後、張作霖は中国に権益を持つ欧米(イギリス、フランス、ドイツ、アメリカなど)の支援を得る為、日本から欧米寄りの姿勢に転換する。
これに対して中国大陸に於ける権益を拡大したい欧米、特に大陸進出に出遅れていたアメリカは積極的な支援を張作霖におこなう。
同時期、中国国民党内でも欧米による支援を狙っていたが、千九百二十七年四月独自に上海を解放した労働者の動向を憂慮した蒋介石が中国共産党員ならびにそのシンパの一部労働者を粛清し(上海クーデター)、国共合作が崩壊する。
北伐の継続は不可能となったが、このクーデター事件以降、蒋介石は欧米勢力との連合に成功した。
千九百二十六年十二月、ライバル達が続々と倒れて行った為、これを好機と見た張作霖は奉天派と呼ばれる配下の部隊を率いて北京に入城し大元帥への就任を宣言、「自らが中華民国の主権者となる」と発表した。
大元帥就任後の張作霖は、更に反共・反日的な欧米勢力寄りの政策を展開する。
張作霖は欧米資本を引き込んで南満洲鉄道に対抗する鉄道路線網を構築しようとしており、南満洲鉄道と関東軍の権益を損なう事になった。
この当時の各国の支援方針は奉天軍(張作霖)は欧米・日本、国民党と中国共産党 はソ連と言う図式だった。
千九百二十八年四月、蒋介石は欧米の支援を得て再度の北伐を行なう。
当時の中華民国では民族意識が高揚し、反日暴動が多発するようになった。
関東軍は、蒋介石から「山海関以東(満洲)には侵攻しない」との言質を取ると、国民党寄りの動きもみせ、関東軍の意向にも従わなくなった張作霖の存在は邪魔になってきた。
この当時の各国の支援方針は、奉天軍(張作霖)は無し、国民党には欧米、共産党にはソ連に変化していた。
また関東軍首脳は、この様な中国情勢の混乱に乗じて「居留民保護」の名目で軍を派遣し、両軍を武装解除して満洲を支配下に置く計画を立てていた。
しかし満州鉄道(満鉄)沿線外へ兵を進めるのに必要な勅命が下りず、この計画は中止される。
千九百二十八年六月四日、国民党軍との戦争に敗れた張作霖は北京を脱出し、本拠地である奉天(瀋陽)での再起を目論んで列車で移動する。
この列車で移動を察知した時、張作霖に対する日本側の対応として意見が分かれる。
田中義一首相は陸軍少佐時代から張作霖を見知っており、「張作霖には利用価値があるので、東三省に戻して再起させる」という方針を打ち出す。
しかし現地の関東軍は、軍閥を通した間接統治には限界があるとして、社会インフラを整備した上で傀儡政権による間接統治(満洲国建国)を画策していた。
為に「張作霖の東三省復帰は満州国建国の障害になる」として、排除方針(暗殺)を打ち出した。
【張作霖爆殺事件(ちょうさくりんばくさつじけん)〔ニ〕】に続く。
関連小論・【張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀】を参照下さい。
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