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盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)

満州国建国後日本は、千九百三十三年三月二十七日に国際連盟を脱退し、中満の国境を越えて中国領内に支那駐屯軍を置いていた。

また、盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)が起きる前年(千九百三十六年/昭和十一年)、青年将校が反乱を企てた二・二六事件が起こっている。

その青年将校達の改革クーデターの試みが失敗すると、東条英機ら統制派の政治的発言力がますます強くなり、返って軍部の力が強まってしまい、経済問題までもが「武力解決が主流」になってしまった。

盧溝橋事件(ろこうきょうじけん)は、千九百三十七年(昭和十二年)七月七日に北京(北平)西南方向の盧溝橋で起きた日本軍と中国国民革命軍第二十九軍(司令官・宋哲元/そうてつげん)との衝突事件である。

中国では一般的に七七事変と呼ばれるこの事件は、支那事変(日中戦争)の直接の導火線となった。

事件の発端となった盧溝橋に日本軍がいた経緯は北京議定書に基づくもので、以前は蘆溝橋・芦溝橋と表記されていたが俗称である。

千九百三十七年(昭和十二年)七月七日、日本軍支那駐屯軍所属の豊台に駐屯していた第三大隊(第七、八、九中隊、第三機関銃中隊)及び歩兵砲隊は、北平の西南端から十余キロにある盧溝橋東北方の荒蕪地で演習を実施した。

この演習については日本軍は七月四日夜、中国側に通知済みであった。

第三大隊第八中隊(中隊長は清水節郎大尉)が夜間演習を実施中、午後十時四十分頃 永定河堤防の中国兵が第八中隊に対して実弾を発射する。

しかもその実弾発射の前後には永定河堤防の中国兵は宛平県城と懐中電灯で合図をしていた。

実は、盧溝橋事件より二ヵ月あまり前の千九百三十七年(昭和十二年)四月、第二十九軍は対日抗戦の具体案を作成し、五月から六月にかけて、盧溝橋、長辛店方面に於いて兵力を増強する。

それと伴に軍事施設を強化し、七月六日、七日には既に対日抗戦の態勢に入っていた。

当時日本軍北支那駐屯軍は、中国北部に於ける日本の権益と北平・天津地方の在留邦人の生命財産を保護する任務を負っていた。

日本軍は天津に主力を、更に北平城内と北平の西南にある豊台に一部隊ずつを置き、この時期に全軍に対して予定されていた戦闘演習検閲の為連日演習を続けていた。

その為清水中隊長は乗馬伝令を豊台に急派し大隊長の一木清直少佐に状況を報告すると伴に、部隊を撤収して盧溝橋の東方約1.8キロの西五里店に移動し七月八日午前一時頃到着した。

七月八日午前十時頃に急報を受けた一木大隊長は、警備司令官代理の牟田口廉也連隊長に電話した。

牟田口連隊長は豊台部隊の一文字山への出動、及び夜明け後に宛平県城の営長との交渉を命じた。

事態を重視した日本軍北平部隊は森田中佐を派遣し、宛平県長・王冷斉及び冀察外交委員会専員・林耕雨等も中佐と同行した。

これに先立って豊台部隊長は直 ちに蘆溝橋の中国兵に対しその不法を難詰し、かつ同所の中国兵の撤退を要求した。

だが、その交渉中の八日午前四時過ぎ、龍王廟付近及び永定河西側の長辛店付近 の高地から集結中の日本軍に対し、迫撃砲及び小銃射撃を以って攻撃して来た。

この為、日本軍も自衛上止むを得ずこれに応戦して龍王廟を占拠し、蘆溝橋の中国軍 に対し武装解除を要求した。

この戦闘に於いて日本軍の損害は死傷者十数名、中国側の損害は死者二十数名、負傷者は六十名以上で在った。

午前九時半には中国側の停戦要求により両軍は一旦停戦状態に入り、日本側は兵力を集結しつつ中国軍の行動を監視した。

北平の各城門は八日午後零時二十分に閉鎖して内外の交通を遮断し、午後八時には戒厳令を施行する。

憲兵司令が戒厳司令に任ぜられたが、市内には日本軍歩兵の一部が留まって、日本人居留民保護に努め比較的平静だった。

森田中佐は八日朝現地に到着して蘆溝橋に赴き交渉したが、外交委員会から日本側北平機関を通して両軍の現状復帰を主張して応じなかった。

九日午前二時になると中国側は遂に午前五時を期して蘆溝橋に在る部隊を全部永定河右岸に撤退することを約束したが、午前六時になっても蘆溝橋付近の中国軍は撤退しない。

そればかりか、逐次その兵力を増加して監視中の日本軍に対し度々銃撃を行った為、日本軍は止むを得ずこれに応戦して中国側の銃撃を沈黙させた。

日本軍は中国側の協定不履行に対し厳重なる抗議を行った。

中国側はやむを得ず九日午前7時旅長及び参謀を蘆溝橋に派遣し、中国軍部隊の撒退を更に督促させる。

その督促の結果、中国側は午後零時十分、同地の部隊を一小隊を残して永定河右岸に撒退を完了し、残った一小隊は保安隊到著後交代させる事になった。

一方で永定河西岸に続々兵カを増加し、弾薬その他の軍需品を補充するなど、戦備を整えつつある状況であった。

この日午後四時、日本軍参謀長は幕僚と共に交渉の為天津をたち北平に向った。

永定河対岸の中国兵からは十日早朝以来、時々蘆溝橋付近の日本軍監視部隊に射撃を加える等の不法行為があった。

同日の夕刻過ぎ、衙門口方面から 南進した中国兵が九日午前二時の協定を無視して龍王廟を占拠し、引き続き蘆溝橋付近の日本軍を攻撃する。

この為牟田口部隊長は逆襲に転じ、これに徹底的打撃を与え午後九時頃龍王廟を占領する。

この戦闘に於いて日本側は戦死六名、重軽傷十名を出した。

十一日早朝、日本軍は龍王廟を退去し、主カは蘆溝橋東北方約二kmの五里店付近に集結した。

この時点で、当時砲を有する七~八百の中国軍は八宝山及びその南方地区にいた。

長辛店及び蘆溝橋の兵力を増加し、永定河西岸及び長辛店高地端には陣地を設備し、その兵力ははっきりしないものの逐次増加の模様であった。

一方日本軍駐屯軍参謀長は北平に於て冀察首脳部と折衝に努めたが、先方の態度が強硬であり打開の途なく交渉決裂やむなしの形勢に陥った。

日本軍参謀長は交渉決裂の為、十一日午後遂に北平を離れて飛行場に向った。

同日、冀察側は日本側が官民ともに強固な決意のある事を察知すると急遽態度を翻して午後八時に北平にとどまっていた交渉委員・松井特務機関長に対し、日本側の提議を受け入れる。

中国側は責任者を処分し、将来再びこのような事件の惹起を防止する事、蘆溝橋及び龍王廟から兵力を撤去して保安隊を以って治安維持に充てる事及び抗日各 種団体取締を行うなどを、二十九軍代表・張自忠、張允栄の名を以って署名の上日本側に手交した。

この事件後に、日中間で幾つかの和平交渉が行われている。

千九百三十七年(昭和十二年)七月、盧溝橋事件が勃発した後、二十九軍司令官・宋哲元(そうてつげん)は日本軍側との人脈を生かして、一旦は停戦に持ち込んだ。

七月十八日に宋哲元は「自分は今回の事変について甚だ遺憾に思ひます。今度の事については軍司令官(香月中将)の指導を仰ぐ事にしたいと思ひますから何事によらず指示に与りたい」と言う丁寧な挨拶で香月中将に謝罪を行う。

翌十九日に宋哲元(そうてつげん)は、日本軍との停戦協定を樹立している。

しかし結局、宋哲元(そうてつげん)の第二十九軍は部下の反日感情により何度も発砲を繰り返した為に日本軍の主要な攻撃目標の一つとされた。

日華事変(にっかじへん)=支那事変(日中戦争)の本格的な軍事衝突は、この「盧溝橋事件」が発端だったのである。

関連小論・【張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀】を参照下さい。

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by mmcjiyodan | 2012-08-13 03:36  

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