関東軍(かんとうぐん)〔二〕
千九百四十二年十月一日には、関東軍の部隊編制が従来の軍から総軍へと昇格する。
関東軍は支那派遣軍や南方軍と同列となり、司令部(関東軍司令部)は総司令部(関東軍総司令部)へ、従来の司令官は総司令官、参謀長は総参謀長、参謀副長は総参謀副長へと改編された。
しかし、太平洋戦争の戦況が悪化した千九百四十三年以降、重点は東南アジア(南方方面)に移り関東軍は戦力を抽出・転用される。
また日ソ中立条約によりソ連軍との戦闘の可能性が少なかった為、関東軍も進んで戦力を提供する。
その埋め合わせに千九百四十五年になると、在留邦人を対象に所謂(いわゆる)「根こそぎ動員(二十五万人)」を行う。
数の上では関東軍は七十八万人に達したが、その練度・装備・士気などあらゆる点で関特演期より遥かに劣っており、満州防衛に必要な戦力量には到っていなかった。
千九百四十五年八月九日、ソ連は日ソ中立条約を一方的に破棄し対日参戦する。
満州に侵攻して来たソ連軍に対し関東軍は国境で陣地防御を行い、戦況の悪化に従って防衛線を段階的に大連 - 新京 - 図們の三角線まで南下させる守勢後退を行った。
この作戦に拠って関東軍は、「開拓殖民を見捨て逃げ出した」と非難される事と成る。
一方で、大連 - 新京防衛ライン(満鉄連京線を指す)では、後方予備として温存していた九個師団を基幹とする第三方面軍が展開して実際に持久戦が企図されていた。
しかし関東軍は、反撃に移るまでに八月十五日の玉音放送を迎えた。
正式に降伏と停戦の命令が満州の関東軍総司令部に伝えられたのは十六日夕方で在った。「徹底抗戦」を主張する参謀もいたが、山田乙三総司令官は夜十時に停戦を決定し、関東軍の諸部隊は逐次戦闘を停止した。
ただし、一部の前線部隊には停戦命令が到達せず、八月末まで戦闘行動を継続した部隊も在った。
停戦後、関東軍将兵の多くは、ソ連の捕虜としてシベリアへ抑留され、過酷な強制労働に従事させられ、多数の死者を出す事となる。
総司令官の山田乙三陸軍大将や参謀の瀬島龍三陸軍中佐ら関東軍幹部は十一年間の長期に渡って抑留されて居る。
近衛文麿公爵の嫡男で近衛家当主の近衛文隆陸軍中尉はシベリア抑留中に獄死した為、当主が不在となった近衛家は文麿の外孫の近衛忠煇が継ぐ事となる。
また、八路軍の捕虜になった林弥一郎陸軍少佐の第四練成飛行隊は、東北民主連軍航空学校を設立し中国人民解放軍空軍の基礎を築いている。
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関連小論・【張作霖爆殺事件・柳条湖事件の陰謀】を参照下さい。
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