孝明天皇崩御の謎〔二〕
孝明天皇は悪性の痔(脱肛)に長年悩まされていたが、それ以外では特段の病は無く至って壮健であらせられた。
「中山忠能(なかやまただやす)日記」にも「近年御風邪の心配など一向にないほどご壮健であらせられたので、痘瘡などと存外の病名を聞いて大変驚いた」との感想が記されている。
公家の中山忠能(なかやまただやす)は、娘の中山慶子が孝明天皇の典侍で、次帝・睦仁親王(明治天皇)を産んだ事から、忠能は明治天皇の外祖父に当たる。
しかし中山忠能(なかやまただやす)は、公武合体派の公家として尊皇攘夷派との国論の二分する対立の中に在って失脚していた。
それが突然復権し、侍従・岩倉具視卿らと協力して王政復古の大号令を実現させ、小御所会議では司会を務めた。
そんな折に孝明天皇が数えで三十六歳の若さにしてあえなく崩御なされてしまった事から、直後からその死因に対する不審説が漏れ広がっていた。
その後明治維新を経て、世の中に皇国史観が醸成されて行くと、皇室に関する疑惑やスキャンダルを公言する事はタブーとなり、学術的に孝明帝の死因を論ずる事は長く封印された。
しかし千九百九年(明治四十二年)にハルビン(哈爾浜)駅で伊藤博文を暗殺した朝鮮族の安重根(あんじゅうこん)が伊藤の罪として孝明帝毒殺を挙げるなど、巷間での噂は消えずに流れ続けていた。
また、千九百四十年(昭和十五年)七月、日本医史学会関西支部大会の席上に於いて、京都の産婦人科医で医史学者の佐伯理一郎が論説を発表する。
佐伯理一郎は、孝明帝が痘瘡に罹患した機会を捉え、侍従・岩倉具視がその妹の女官・堀河紀子(ほりかわもとこ)を操り、「天皇に毒を盛った」と言う旨の内容だった。
そして日本が太平洋戦争(第二次世界大戦)で敗北し、皇国史観を背景とした言論統制が消滅すると、俄然変死説が論壇を賑(にぎ)わす様になる。
まず最初に学問的に暗殺説を論じたのは、「孝明天皇は病死か毒殺か」及び「孝明天皇と中川宮」などの論文を発表した禰津正志(ねずまさし)だった。
禰津(ねず)は、医師達が発表した「御容態書」が示すごとく「孝明帝が順調に回復の道を辿(たど)っていた」とし、「孝明帝は回復する筈だった」と指摘している。
処が、症状が一転急変して苦悶の果てに崩御された事を鑑み、禰津(ねず)は孝明帝の最期の病状からヒ素による毒殺の可能性を推定した。
また戦前の佐伯説と同様に犯人について、岩倉卿が首謀者、妹・堀河紀子の実行説を唱えているが、決定的な証拠はない。
千九百七十五年(昭和五十年)から千九百七十七年(昭和五十二年)にかけ、滋賀県で開業医を営む親族の伊良子光孝に拠って典薬寮の外科医・伊良子光順の拝診日記が「滋賀県医師会報」に連載された。
この日記の内容そのものはほとんどが客観的な記述で構成され、孝明帝の死因を特定できるような内容が記されている訳でも無い。
また、典薬寮の外科医・伊良子光順自身が天皇の死因について私見を述べている様なものでも無かった。
だがこれを発表した光孝は、断定こそ避けているものの、禰津(ねず)と同じくヒ素中毒死を推察させるコメントを解説文の中に残した。
これらの他にも、学界に於いて毒殺説を唱える研究者は少なからず居り、千九百八十年代の半ばまでは孝明帝の死因について、毒殺が多数説とも言うべき勢力を保っている。
いずれにしても、もし側近に拠る孝明帝の暗殺が事実なら、次帝・睦仁親王(明治天皇)が「別人と入れ替わった」としても、「さして驚く事では無いではないか?」と思えて来るのだ。
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