蒲生氏郷(がもううじさと)と蒲生三代記〔一〕
蒲生氏郷(がもううじさと)もその一人で、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将あるが、明智光秀や羽柴秀吉等とは遅れて生まれている。
氏郷(うじさと)は近江国蒲生郡日野に六角氏の重臣・蒲生賢秀(がもうかたひで)の嫡男として生まれ、幼名は鶴千代と名付けられた。
蒲生氏は藤原秀郷流の系統に属する鎌倉時代から蒲生郡日野領主の名門で、室町時代には近江国の守護大名となった六角氏に客将として仕えた。
千五百六十八年(永禄十一年)氏郷(うじさと)十二歳の時、主家の六角氏が織田信長によって滅ぼされる。
為に、氏郷(うじさと)の父・賢秀(かたひで)は織田氏に臣従し、この時嫡男・氏郷(当時は鶴千代)を人質として岐阜の信長の下に送られた。
信長は鶴千代を人質として取ったが、その鶴千代の器量を早くから見抜いて、次女の冬姫(母親は不明)を正室に与えて娘婿として迎えた。
信長自ら烏帽子親となり、岐阜城で元服して忠三郎賦秀(ますひで)と名乗り、織田氏の一門として手厚く迎えられた。
賦秀(ますひで・氏郷/うじさと)は武勇に優れ、北畠具教・具房との戦いにて初陣を飾り武功を挙げる。
その後賦秀(ますひで・氏郷/うじさと)は信長の戦に従い、伊勢大河内城攻め、姉川の戦い、朝倉攻め、小谷城攻め、伊勢長島攻め、長篠の戦いなどに従軍して、武功を挙げている。
千五百八十二年(天正十年)、主君(義父)・織田信長が明智光秀に拠る本能寺の変により横死する。
氏郷(うじさと)は、安土城の留守居を務めていた父・賢秀(かたひで)と伴に安土城に居た濃姫ら信長の妻子を保護し、居城・日野城(中野城)へ走って立て篭もり、明智光秀に対して対抗姿勢を示した。
光秀は明智光春、武田元明、京極高次らの武将に近江の長浜、佐和山、安土の各城を攻略させ、次に日野城(中野城)攻囲に移る手筈だったが、直前に羽柴秀吉との山崎合戦で敗死した。
信長の娘婿として明智光秀に対抗した賦秀(ますひで・氏郷/うじさと)は、その流れで光秀を討った羽柴秀吉(豊臣秀吉)に仕え、秀吉は賦秀(ますひで)に伊勢松ヶ島十二万石を与えた。
この松ヶ島十二万石拝領の頃、当時の実力者だった羽柴“秀”吉の名乗りの一字を下に置く「賦秀」と言う名が不遜であると言う気配りから、賦秀(ますひで)を氏郷(うじさと)と名乗りを改めている
清洲会議で優位に立ち、信長の統一事業を引き継いだ秀吉に従い、千五百八十四年(天正十二年)の小牧・長久手の戦いに従軍、功により秀吉から「羽柴」の苗字を与えられる。この頃、高山右近らの影響で大坂に於いてキリスト教の洗礼を受け、キリシタン大名と成り、洗礼名はレオン(あるいはレオ)である。
信長二男・織田信雄・徳川家康陣営との小牧・長久手の戦いに勝利した羽柴秀吉(豊臣秀吉)はイヨイヨ天下統一の仕上げを始め、紀州征伐(第二次太田城の戦い)、九州征伐、小田原征伐に氏郷(うじさと)も従軍する。
氏郷(うじさと)は秀吉の天下統一戦に従軍する傍ら、伊勢松ヶ島の居城から飯高郡矢川庄四五百森(よいほのもり)への新城移転を行う。
出身地の日野城(中野城)に近い馬見岡綿向神社(蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、新城を松坂とした。
この松坂城築城事業に、氏郷(うじさと)は松ヶ島の武士や商人を強制的に松坂城下に移住させて城下町を作り上げた。
千五百八十八年(天正十六年)四月十五日、氏郷(うじさと)は正四位下・左近衛少将に任じられ、豊臣姓(本姓)を与えられる。
一連の統一事業に関わった功により、氏郷(うじさと)は千五百九十年(天正十八年)の奥州仕置に於いて伊勢・松坂城より陸奥会津に移封され四十二万石(後に九十二万石)の大領を与えられた。
これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑える為の配置であり、当初細川忠興が候補と成ったが辞退した為に氏郷(うじさと)が封ぜられた。
会津に於いては、同じく蒲生氏の氏神・馬見岡綿向神社参道周辺の「若松の杜」に由来、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。
この会津・蒲生領、後の検地・加増により九十二万石を数える大領として蒲生氏最良の時代を迎えた。
松坂以来領地経営に長けた氏郷(うじさと)は、築城と同時に城下町の開発も実施し、旧領の日野・松阪の商人の招聘、定期市の開設、楽市楽座の導入、手工業の奨励等により、会津発展の礎を築いた。
また、氏郷(うじさと)は茶湯にも深い理解があり、利休七哲の一人(筆頭)にまで数えられ、千利休の死後、その子息・少庵は氏郷の許で蟄居している。
氏郷(うじさと)は伊達政宗と度々対立しながらも、大崎・葛西一揆、九戸政実の乱の制圧、など秀吉の期待に応えている。
千五百九十二年(文禄元年)の文禄の役では、肥前名護屋へと出陣するもこの陣中にて体調を崩し三年後の千五百九十五年(文禄四年)、大腸がんで死去する。
蒲生家の家督は家康の娘との縁組を条件に嫡子の秀行が継いだが、家内不穏の動きから宇都宮に移され十八万石に減封され、会津の後釜には越後春日山から上杉景勝が百二十万石で入った。
織田信長が認めた蒲生氏郷(がもううじさと)を、当時の天下人・羽柴(豊臣)秀吉が「恐がっていた」と言う説がある。
ただ、織田信長が認めたのは明智光秀の優れた諜報能力、羽柴秀吉の優れた土木建築能力に並ぶ蒲生氏郷(がもううじさと)の優れた領国経営能力だった。
【蒲生氏郷(がもううじさと)と蒲生三代記〔二〕】に続く。
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