今井宗久 (いまいそうきゅう)
今井の家系は近江国宇多源氏流佐々木氏の末裔を称し、佐々木流尼子氏の一族で近江国高島郡今井市城を領して氏を今井と称した。
宗久 (そうきゅう)は当代一流の茶人として将軍・足利義昭にも茶湯をもって近侍し、また目先も利いて、織田信長の堺に対する矢銭徴課に当たっては即座にこれに応じた。
千五百六十八年(永禄十一年)十月、上洛した信長と摂津西成郡芥川で相見え、名物の松島の茶壺や紹鴎茄子などを献上するなどいち早く信長の知己を得て、足利義昭からは大蔵卿法印の位を授かる。
同千五百六十八年年、信長が堺に対して矢銭二万貫を課した際、堺会合衆達が三好氏の力を背景に徹底抗戦の姿勢を見せた。
しかし信長の力量を三好氏より上と見た宗久(そうきゅう)は、この要求を受け入れるよう信長と堺会合衆の仲介を行う。
堺会合衆との仲介に成功し、宗久 (そうきゅう)は摂津住吉郡に二千二百石の采地をうけた。
今井宗久 (いまいそうきゅう)は信長に臣従し、重用されてさまざまな特権を得る。
宗久は千五百六十九年(永禄十二年)、信長より堺近郊にある摂津五カ庄の塩・塩合物の徴収権と代官職、淀過書船の利用(淀川の通行権)を得る。
千五百七十年(元亀元年)には、武将で茶人の長谷川宗仁(はせがわそうにん)と伴に生野銀山などの但馬銀山を支配する。
また、代官領に河内鋳物師ら吹屋(鍛冶屋)を集め、鉄砲や火薬製造にも携わった。
これらにより、会合衆の中でも抜き出た存在として堺での立場を確実なものにし、信長の天下統一を支えた。
また、茶人としても千利休、堺の商人兼茶人の津田宗及(つだそうぎゅう)と伴に信長の茶頭を務めた。
信長の死後、宗久(そうきゅう)は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)にも仕える。
宗久(そうきゅう)は堺商人・茶人の万代屋宗安(もずやそうあん/千利休の女婿)、松永久秀の庶子と言われる武人商人・住吉屋宗無(山岡宗無/そうむ)と伴に秀吉の御咄衆(おとぎしゅう)を務めた。
また宗久(そうきゅう)は、茶頭として千五百八十七年(天正十五年)に秀吉が主催した聚楽第落成の交歓茶事北野大茶会にも協力をし、所蔵茶器が第四位を占めた。
しかし、秀吉は宗久(そうきゅう)よりも新興の薬種商・小西隆佐(こにしりゅうさ/小西行長の父親)や千利休らを重用した事も在り、信長時代に浴したほどの地位ではなかった。
★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。
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