稲葉氏(いなばうじ)と稲葉良通(いなばよしみち)
また別の説として、稲葉氏(いなばうじ)は安藤氏と同族で伊賀氏の末裔とされる事もある。
稲葉良通 (いなばよしみち / 稲葉一鉄・いなばいってつ)は、千五百十五年(永正十二年)、美濃の国人である稲葉通則の六男として池田郡本郷城に生まれる。
六男と言う事も在り、幼少時に崇福寺で僧侶となって快川和尚の元で学んでいた。
所が、千五百二十五年(大永五年)に父と兄達が牧田の戦いで浅井亮政(あざいすけまさ/浅井長政の祖父)と戦って戦死する。
家督を継ぐ者が居なく成った為、還俗して祖父・通貞(みちさだ/塩塵)と叔父・稲葉忠通の後見のもとに家督と曽根城を継ぎ国人領主・稲葉良通(いなばよしみち)が誕生する。
稲葉良通(いなばよしみち)は美濃国曽根城主で、安藤守就、氏家直元と併せて西美濃三人衆と併称される。
良通(よしみち)は国人領主として、美濃国主・土岐氏、斎藤道三から斎藤氏三代、織田信長、豊臣秀吉に仕える。
織田信長に仕え、途中から信長三男・織田信孝の副将として一向一揆、長篠の戦い、紀州征伐などなど信長の作戦に参加する。
千五百七十七年(天正五年)の信長の上洛の際、良通(よしみち)は信孝と共に安土城の留守居役を務めている。
千五百七十九年(天正七年)、良通(よしみち)は家督と曽根城を嫡子の稲葉貞通(いなばさだみち)に譲り、美濃清水城に移るも稲葉家のリーダーとして健在だった。
千五百八十二年(天正十年)、明智光秀が本能寺の変を起こし信長を死去させる。
清洲会議の後、織田信孝が岐阜城を相続し、美濃国は支配下に置かれる筈だったが、良通(よしみち)は信孝と対立を深める羽柴秀吉(豊臣秀吉)に従う様になる。
千五百八十四年(天正十二年)、小牧・長久手の戦いにも参加し、岩崎山の砦を守備し武功を挙げた。
尚、通貞(みちさだ/塩塵)の娘「安」は斎藤利三に嫁し、利三の娘「福」も徳川家康の命で稲葉良通(一鉄)の庶長子・稲葉重通(いなばしげみち)の養女となる。
林正成は、家康の命で稲葉福と成った稲葉家の婿に迎えられ、林氏から稲葉正成になるなど稲葉氏は斎藤氏と強力な縁戚関係となる。
つまり稲葉良通(よしみち)は江戸幕府第三代将軍・徳川家光の乳母となり権勢を振るった春日局(斉藤福=稲葉福)の外祖父にあたり、養祖父でもある。
稲葉貞通(いなばさだみち)の代になった稲葉氏は、豊臣秀吉(羽柴秀吉)の天下取りを確定させた九州征伐、小田原征伐などに参陣する。
また、貞通(さだみち)は千五百九十二年(文禄元年)からの文禄の役(朝鮮征伐)に於いては諸将とともに朝鮮半島に渡海して転戦している。
徳川家康方と石田三成方が戦った千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、当初は西軍(石田三成方)に与して郡上八幡城に籠もった。
その郡上八幡城が、東軍(徳川家康方)の遠藤慶隆、金森可重(かなもりありしげ/金森長近の養子)らに攻撃されて落城し、その後貞通(さだみち)は東軍に就いて、関ヶ原本戦では加藤貞泰隊に従って活躍した。
結果、関ヶ原本戦は東軍(徳川家康方)の勝利に終わる。
戦後貞通(さだみち)は、戦功により美濃国八幡の知行四万石から豊後国海部郡、大野郡、大分郡の三郡内に領地を持つ五万六十石余の臼杵城主として初代臼杵藩主となった。
さらに稲葉正成(林正成)と稲葉福(斉藤福)との間に生まれた稲葉正勝は、徳川親藩として八万五千石を所領し、その次の代には十一万石へ加増されるなどして老中や京都所司代などを務めている。
相模小田原、越後高田、下総佐倉の移封から山城淀に落ち着いた淀藩(京都市伏見区)・稲葉家(十万二千石)として明治維新を迎えた。
名字関連詳細・小論【名字のルーツと氏姓(うじかばね)の歴史】<=クリックがお薦めです。
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by mmcjiyodan | 2012-10-09 01:33