沢彦宗恩(たくげんそうおん)
織田信長の父・信秀(のぶひで)の時代、家臣で信長・傅役(お守り役)の平手政秀に命じて吉法師(信長)の教育係りを捜した所、臨済宗妙心寺派の僧・沢彦宗恩(たくげんそうおん)に白羽の矢がたった。
沢彦宗恩(たくげんそうおん)は信長の父・信秀(のぶひで)の信任を得ていた所から、その上申で吉法師(信長)が実は聡明で、けして「虚け者(うつけもの)では無い」と信じていた。
この教育係り、沢彦宗恩(たくげんそうおん)は幼名・吉法師から改名した「信長」と言う名前の「名付け親でもある」と伝えられる。
宗恩(そうおん)は幼少時代の織田信長の教育係でもあり、信長に「帝王学や兵学を授けた」と言われている。
その宗恩(そうおん)は、自刃した信長・傅役(お守り役)の平手政秀の菩提を弔う為に建立された政秀寺の開山も務めている。
美濃国争奪戦で第三代国主・斉藤龍興(さいとうたつおき)を伊勢長島へと逃亡させ、その後龍興(たつおき)は越前朝倉氏・朝倉義景(あさくらよしかげ)を頼って居候をするなど流浪を重ねた。
美濃国の大名 「斎藤家」を滅ぼし稲葉山城 を居城とした織田信長は、稲葉山城下の町「井ノ口」について天下の拠点にしようと考える。
信長は宗恩(そうおん)に、「井ノ口を我が足掛かりに改名したいが、城下町に付ける良い名がないか」と尋ねた。
この時に宗恩(そうおん)は、八百年年続いた中国の「周帝国」の王が「岐山」と言う山で挙兵した事と孔子が「曲阜(きょくふ)」と言う場所で生まれた事を告げ、「岐阜と言う名を薦めた」 と言う。
さらに宗恩(そうおん)は、信長の「印」として 「天下布武」 の四字を授け、軍師の一人として信長の下で多くの進言をしている。
★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。
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