原田(塙)直政(はらだ/ばんなおまさ)
原田(塙)直政(はらだ/ばんなおまさ)は尾張国春日井郡比良村出身と言われ、織田氏の家臣である。
塙(ばん)氏は尾張国春日井郡大野木城(西区大野木町二丁目)の国人城主とされるが、詳細は不明である。
塙氏(ばんうじ)を称するは清和源氏佐竹氏流、桓武平氏大掾氏流、藤原氏、中臣氏などであるが、直政(なおまさ)の塙(ばん)氏(うじ)の系流はそのどちらか定かでない。
安土桃山時代の武将・塙直政(ばんなおまさ)は、始め信長の馬廻(親衛隊)、それから信長軍団のエリート青年将校・赤母衣衆(あかほろしゅう)に抜擢されて頭角を現した。
信長が岐阜に移るのに伴って岐阜に移り住み、千五百六十八年(永禄十一年)の信長入京以降は主に畿内の政務を担当し、名香・蘭奢待(らんじゃたい)下賜の際の御奉行(監督役)を務めた。
直政(なおまさ)は、後妻に柴田勝家の娘を娶り、妹・某が織田信長の側室となるなどして、信長から羽柴秀吉、明智光秀、簗田広正(やなだひろまさ)らと並び称される有力家臣となる。
千五百七十四年(天正二年)五月に、直政(なおまさ)は南山城国・守護、翌天正三年三月にはさらに大和国守護の兼務を命じられ、二ヶ国を支配するなど吏僚としての活躍も目立つ才を発揮する。
以後、直政(なおまさ)は信長の軍事作戦にも参加し、対本願寺戦や千五百七十五年(天正三年)の伊勢長島攻め、高屋城の戦い、越前一向一揆討伐に参加し戦功を立てる。
この年の叙任で塙直政(ばんなおまさ)は羽柴秀吉・明智光秀や簗田広正らに混じって備中守に任ぜられ、九州の名族・原田の姓を下賜され、備中守・原田直政(はらだなおまさ)を名乗った。
原田直政(はらだなおまさ/塙直政)は、長篠の戦いで鉄砲奉行を務めるなどその後も信長に重用されるも、一向一揆の本拠地・本願寺との戦が命運を分けてしまう。
千五百七十六年(天正四年)四月、直政(なおまさ)は明智光秀、荒木村重、細川藤孝らと共に石山本願寺攻め(石山合戦)に出陣する。
直政(なおまさ)は主力として三津寺攻略を担当したが、本願寺側の伏兵・雑賀衆の鈴木重秀(雑賀孫市の一人)の軍に遭い、乱戦の中討死した。
残念ながら原田直政(はらだなおまさ)は、石山本願寺との戦いで野戦を挑み 敗戦 戦死した為、歴史の舞台からプツリと消えてしまった。
これによって戦線が崩壊しかけ、明智光秀を始めとする織田軍は天王寺砦に於いて本願寺軍に包囲されて一時危機に陥った。
だが、急を知った信長自らの早急な出陣と奮戦によって戦線を再び持ち直す事に成功し、本願寺側の攻勢は頓挫する。
信長はこの戦いの後、石山攻めの方針を転換し、重臣筆頭格の佐久間信盛に大軍を与えて長期包囲する作戦に切り替えた。
余談だが、本願寺との戦い(天王寺の戦い)で原田直政(はらだなおまさ/塙直政)と共に討ち死にした豪傑・塙安弘(ばんやすひろ)は一族の者と思われる。
塙安弘(ばんやすひろ)は千五百七十年(元亀元年)の朝倉攻めの退却時、太田牛一らと共に「殿(しんがり)の一人を務めた」と伝えられる豪傑である。
安弘(やすひろ)は信長の馬廻(親衛隊)だったようだが、原田直政(はらだなおまさ/塙直政)が南山城主と大和の守護になるとこれを補佐し、塙一族の名を高めている。
★主な安土桃山時代の大名家・代表的当主など一覧は【安土桃山時代(あづちももやまじだい)】を参照下さい。
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