佐久間信盛(さくまのぶもり)〔二〕
千五百七十二年(元亀三年)の三方ヶ原の戦いでは、滝川一益・平手汎秀(ひらてひろひで)・水野信元と共に三千の兵を率い、徳川家康軍八千の援軍に赴く。
しかし信盛(のぶもり)は、二万七千の武田信玄軍を目の当たりにし、ほとんど戦わずして退却している。
この戦で、同じ援軍の将であった平手汎秀(ひらてひろひで)は徳川軍と共に戦い戦死している。
翌千五百七十三年(天正元年)八月の一乗谷城の戦いの直前、戦場から離脱する朝倉義景軍の追撃を怠った織田家臣団の面々は信長の叱責を受ける。
その際に信盛(のぶもり)は、信長の怒りに油を注ぐ弁明をして、三方ヶ原の退却同様にやる気の無さを露呈している。
千五百七十三年(天正元年)十一月には足利義昭を匿った河内若江城主・三好義継を信長の命令で討伐した。
信盛(のぶもり)は、千五百七十五年(天正三年)の高屋城の戦い・長篠の戦いにも出陣している。
石山本願寺攻略戦の指揮官である塙直政(ばんなおまさ)の戦死を受け、千五百七十六年(天正四年)に信盛(のぶもり)は石山合戦の一環であった天王寺の戦いで後任として対本願寺戦の指揮官に就任する。
三河・尾張・近江・大和・河内・和泉・紀伊と言った畿内七ヶ国の与力を付けられた信盛(のぶもり)配下の軍団は当時の織田家中で最大規模であった。
所が、最大規模軍団を擁しながら信盛(のぶもり)は積極的な攻勢に出ず、戦線は膠着させる。
その後信盛(のぶもり)は千五百七十七年(天正五年)の紀州征伐と松永久秀討伐(信貴山城の戦い)にも織田軍の部将として出陣している。
千五百八十年(天正八年)、信長の天下布武は伸ばせば手の届きそうな所に来ていた。
此処まで来るのに、信長は誰の手助けも誰の支援も受けていない。
まったくの独力でのし上がって来た。
それ故、血統の出自にあぐらをかき、何かと言い訳ばかりする重臣共が我慢できなかった。
人生運不運は付き物で、信長は家臣団引き締めの見せしめに、二人の子飼いの重臣を選んだ。
林秀貞(はやしひでさだ・旧来は通勝・みちかつとされていた)と佐久間信盛(さくまのぶもり)である。
千五百八十年(天正八年)信長自らが朝廷を動かし本願寺と和睦して、十年続いた一向宗との戦に終止符を打った。
この時点まで信盛(のぶもり)は、信長の父・織田信秀の代からの古参であると同時に近畿の地に織田家中で最大規模の軍団を統括していた大番頭だった。
その信盛(のぶもり)の地位が、三方ヶ原の退却、朝倉義景軍の怠慢追撃、対本願寺戦の膠着と信長の怒りが溜まり、信長の意向で終(つい)に一変する。
盟主と同盟者に近い主従関係に在った信長と信盛(のぶもり)の関係は、信長の隆盛と共に決定的に変質し、既に絶対君主と臣下の関係になっていた。
千五百八十年(天正八年)八月、古参宿老・信盛(のぶもり)は信長から十九ヶ条にわたる折檻状を突きつけられ失脚、嫡男・信栄と共に高野山へと上った。
しかし信長は、高野山在住すら許さず、信盛(のぶもり)はさらに南に移動、佐久間家の郎党も次々に信盛父子を見捨てて去って行く。
高野山から熊野に落ちる時、従った者は一名きりだった。
信長は短気に伝えられているが実はかなり辛抱強く、重臣・佐久間信盛(さくまのぶもり)にも汚名挽回のチャンスはかなり何度も与えていた。
その信長の堪忍袋の緒が終(つい)に切れたのだが、そうなるまで気が付かなかった信盛(のぶもり)にとっては「突然の事」だったのかも知れない。
信盛失脚後に信長の実質的な本拠地である近畿地区で大軍団を統率する事になったのは明智光秀である。
この信盛(のぶもり)失脚事件は、本能寺の変に「心理面、軍事面など、様々な影響を与えた」とする説も出ている。
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