佐久間信盛(さくまのぶもり)〔一〕
信盛(のぶもり)は、尾張国愛知郡山崎(現在の名古屋市南区)に生まれ、若い頃から信長の父・織田信秀に仕えた。
信盛(のぶもり)の佐久間家は、元々尾張に勢力を持つ土豪であり、信長に身ひとつで使え始めた羽柴秀吉、明智光秀、滝川一益らとは格が違っていた。
信盛(のぶもり)は独自の判断で守護代の分家に過ぎなかった信長の父・織田信秀につき従い、言わば盟主と同盟者に近い主従関係に在って、信秀にも一目置かれていた。
信盛(のぶもり)は主君・織田信秀から幼少の信長に重臣としてつけられ、信秀死後の家督相続問題でも一貫して信長に与して織田家相続を成し遂げさせている。
信盛(のぶもり)は信長の弟・信時を守山城に置く際に城主だった織田信次の家臣・角田新五らを寝返らせるなどの功績を挙げている。
信長の弟・織田信行の謀反の際も、信盛(のぶもり)は「稲生の戦い(いのうのたたかい)」で信長方の武将として戦い、信長の勝利に与した。
その功により信盛(のぶもり)は、以後、信長家臣団の筆頭格として扱われ、殿軍(しんがりぐん)の指揮を得意とした事に由来する「退き佐久間」と言われ武勇を謳われた。
ただ信盛(のぶもり)自身はこの「稲生の戦い」で、弟・信行謀反に対する信長の戦略の巧みさに驚嘆させられている。
信盛(のぶもり)は信長に従って各地を転戦し織田家の主だった合戦には全て参戦、千五百六十年(永禄三年)の桶狭間の戦いでは善照寺砦を守備、戦後に鳴海城を与えられた。
また、吏僚としての活動も見られ、千五百六十七年(永禄十年)には徳川家康の長男・松平信康に信長の娘・徳姫が嫁ぐ際に岡崎城まで供奉、家康の領地と接する西三河を任される。
千五百六十八年(永禄十一年)の上洛後には、信盛(のぶもり)も畿内の行政担当者の一人に選ばれ、大和国の松永久秀を交渉で味方に付けている。
同年の近江国の六角義賢・義治父子との観音寺城の戦いでは箕作城を落とすなどの戦功をあげ、長島一向一揆や越前一向一揆戦でも活躍した。
浅井長政が信長に敵対した後は、佐久間信盛(さくまのぶもり)は近江永原城に配置され柴田勝家と共に南近江を平定(野洲河原の戦い)、姉川の戦い、志賀の陣にも出陣している。
信盛(のぶもり)は比叡山焼き討ちで武功を上げ、千五百七十一年(元亀二年)十一月には知行地として近江栗太郡を与えられている。
同年に松永久秀と争っていた筒井順慶の帰順交渉も担当、久秀と順慶を和睦させている。
【佐久間信盛(さくまのぶもり)〔二〕】に続く。
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by mmcjiyodan | 2012-11-16 19:29