南北朝合一(なんぼくちょうごういつ/明徳の和約)
明徳の和約(めいとくのわやく)は、千三百九十二年(明徳三年/元中九年)に分裂していた皇統、吉野朝(南朝・大覚寺統)と北朝(持明院統)間で結ばれた和議と皇位継承について結ばれた協定である。
この明徳の和約(めいとくのわやく)は「明徳の和談」、「元中一統」とも称される。
この和約に従ってユリウス暦千三百九十二年十一月十九日(明徳三年/元中九年閏十月五日)、吉野朝(南朝)の後亀山天皇が吉野から京都に帰還する。
京都に帰還した吉野朝・後亀山天皇が、北朝の後小松天皇に三種の神器を譲って退位し、南北朝の合一が図られた。
これに拠って、千三百三十六年(建武三年)以来の朝廷の分裂状態が五十三年振りに一旦終了した。
しかしそもそも、この「明徳の和約」は内乱の解決を図る室町幕府第三代将軍・足利義満らと吉野朝(南朝)方でのみで行われ、北朝方は蚊帳の外だった。
それで、北朝方はその和約内容を知らされず「当事者として合意を約したものでもなかった様」である。
その為か、北朝では「譲国の儀(正統な南朝から受け継ぐ意味)」の実施や両統迭立(りょうとうてつりつ/交互に皇位につく)などその内容が明らかとなるとこれに強く反発した。
北朝の後小松天皇は、その経緯から吉野朝(南朝)の後亀山天皇との会見を拒絶する。
後小松天皇は、平安時代末期に安徳天皇と伴に西国に渡った神器が安徳帝の崩御と伴に京都に戻った先例を採り「吉野朝(南朝)と約した」とされる「譲国の儀」を無視する。
その先例に則って後小松天皇は、上卿(権大納言)・日野資教、奉行(頭左大弁)・日野資藤らを大覚寺に派遣して神器を内裏に遷して一方的に決着させる。
元号についても朝廷では北朝の「明徳」を継続し、二年後に後亀山天皇に太上天皇の尊号を奉る時も、後小松天皇や公家達の反対意見を足利義満が押し切る形で漸く実現した。
さらに王朝国家体制下の国衙領(こくがりょう/国衙が支配した公領)の扱いについても吉野朝(南朝)と北朝は元々の方針が違い、双方が対立する。
「建武の新政」以来、知行国を制限して国衙領をなるべく国家に帰属させようとして来た吉野朝(南朝)と、知行国として皇族や公家達に与えて国衙領の実質私有化を認めて来た北朝との対立だった。
吉野朝(南朝)方が北朝側の領主権力を排除して和議の内容はほとんど無視され、実際に朝廷が保有出来た国衙領は「僅かで在った」と見られている。
尚も北朝方は、両統迭立(りょうとうてつりつ/交互に皇位につく)が条件で在ったにも関わらず、千四百十二年(応永十九年)に後小松天皇が嫡子の称光天皇に譲位して両統迭立は反故にされた。
その称光帝には嗣子が無く、千四百二十八年(正長元年)の崩御よって持明院統の嫡流は断絶する。
嫡流断絶にも関わらず、後小松上皇は傍流である伏見宮家から猶子を迎え後花園天皇を立てて再び両統迭立(りょうとうてつりつ/交互に皇位につく)の約束を反故にした。
反発した吉野朝(南朝)の後胤や遺臣らは再び吉野に篭り、朝廷や幕府に対する反抗を十五世紀後期まで続け、これを後南朝と言う。
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皇統と鵺の影人
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