屋島の戦い(やしまのたたかい)
平安時代末期の千百八十五年(文治元年)、「一ノ谷の戦い」で敗れた平家が屋島に本拠を置いた所から源氏との決戦の場とった。
源義仲(木曽義仲)に敗れた平家は安徳天皇と三種の神器を奉じて都を落ち、九州大宰府まで逃れるも在地の武士達が抵抗して大宰府からも追われてしまう。
平家はしばらく船で流浪していたが、阿波国(徳島県)の豪族・田口成良(たぐちしげよし)に迎えられて讃岐国屋島に本拠を置く事ができる。
折りしも鎌倉の源頼朝と源義仲(木曽義仲)の抗争が起きて義仲は滅び、その期に乗じて平家は失地を回復し、勢力を立て直して摂津国福原まで進出する。
しかし、頼朝の弟の範頼・義経の兄弟に攻められて大敗を喫した「一ノ谷の戦い」で平家は一門の多くを失う大打撃を蒙る。
「一ノ谷の戦い」の後、源氏の総大将・源範頼は一旦鎌倉へ帰還し、源義経が頼朝の代官として京に留まった。
平家は、安徳天皇と三種の神器を奉じて讃岐国屋島に内裏(だいり/天皇の座所)を置いて本拠とし、平知盛(たいらのとももり/清盛四男)を大将に長門国彦島にも拠点を置いた。
平家はこの長門国彦島の拠点に有力な水軍を擁して瀬戸内海の制海権を握り、諸国からの貢納を押さえ力を蓄えていた。
一方の鎌倉方は水軍を保有していなかった為、長門国彦島攻め・讃岐国屋島攻めに踏み切れず平家の水軍に傍観が続いた。
鎌倉へ帰還していた源範頼が再び大軍を揃えて九州・中国地方の制圧に掛かるが、長門国彦島は孤立しながらも強固に抵抗する。
京に在った源義経は後白河法皇に西国出陣を奏上して許可を得、摂津国の水軍・渡辺党と熊野別当湛増の熊野水軍そして河野通信の伊予水軍を味方につけて、摂津国渡邊津(わたなべみなと)に兵を集める。
渡邊津を出航するにあたり義経は戦奉行の梶原景時と軍議を持ち、景時は船の進退を自由にするために逆櫓を付けようと提案した。
しかし、義経は「そのようなものを付ければ兵は退きたがり、不利になる」と反対する。景時は「進むのみを知って、退く事を知らぬは猪武者である」と言い放ち、義経は「初めから逃げ支度をして勝てるものか、私は猪武者で結構である」と言い返した。
義経が四国に向けて出航するに際し、天候が崩れて暴風雨と成る。
暴風雨の為、諸将は出航を見合わせを提言、船頭らも暴風を恐れて出港を拒んだが、義経は郎党に命じて弓で船頭を脅し、僅か五艘、手勢百五十騎で出航を強行する。
義経の船団は暴風雨をつき通常三日の航路を四時間ほどで阿波国勝浦に到着、在地武士・近藤親家を味方にした。
屋島の平家方は、田口成直(田口成良の子)が三千騎を率いて伊予国の河野通信討伐へ向かっており、屋島には千騎程しか残って居なかった。
その千騎も阿波国、讃岐国各地の津(港)に百騎、五十騎と分散して配しており、「屋島は手薄である」との情報を阿波国勝浦の在地武士・近藤親家から手に入れ、義経は好機と判断した。
義経は平家方の豪族・桜庭良遠(田口成良の弟)の舘を襲って打ち破り、徹夜で讃岐国へ進撃して翌日には屋島の対岸に至った。
今なお屋島は相引川によって隔てられているが、江戸時代の新田開発により陸続きに近くなるまで、この頃の屋島は独立した島になっていた。
しかし干潮時には騎馬で島へ渡れる事を知った義経は、屋島強襲を決意する。
義経はわずか百五十騎の寡兵である事を悟られない為に、周辺の民家に火をかけて大軍の襲来と見せかけ、一気に屋島の内裏(だいり/天皇の座所)へと攻め込んだ。
海上からの攻撃のみを予想していた平氏軍は、四国の陸地伝いに攻め寄せた義経軍に狼狽し、内裏を捨てて屋島と庵治半島の間の檀ノ浦浜付近の海上へ逃げ出した。
この時の義経の勝因は、貴族化した平家方には想像できない暴風雨の中の渡海と陸伝いの奇襲だった。
やがて、渡邊津から出航した梶原景時が率いる鎌倉方の大軍が迫り、平氏は長門国彦島へ退き、屋島の陥落により四国に於ける拠点を失った。
既に九州は源範頼の大軍によって押さえられており、平氏は長門国彦島(現山口県)に孤立してしまう。
義経は水軍を編成して、最後の決戦である「壇ノ浦の戦い」に臨む事になる。
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皇統と鵺の影人
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