大村益次郎(おおむらますじろう)〔二〕
第二次長州征討終了後、大村益次郎(おおむらますじろう)は山口に帰還、年末には海軍用掛を兼務し、海軍頭取・前原彦太郎(前原一誠)を補佐する。
千八百六十七年(慶応三年)、討幕と王政復古を目指し西郷吉之助(隆永/隆盛)、大久保一蔵(利通)ら薩摩藩側から長州藩に働きかけが行われる。
長州藩論は分立し、益次郎(ますじろう)は慎重論を唱えたが、大久保一蔵が長州に来て討幕を説得した事で藩論は出兵論に傾く。
徳川慶喜による大政奉還後の千八百六十八年(明治元年)一月中旬、鳥羽・伏見の戦いを受け、藩主・毛利広封(もうりひろあつ)が京へ進撃、益次郎(ますじろう)は随行する形で用所本役軍務専任となる。
千八百六十八年(明治元年)二月、益次郎(ますじろう)は王政復古により成立した明治新政府の軍防事務局判事加勢として朝臣となる。
その月、益次郎(ますじろう)は京・伏見の兵学寮で各藩から差し出された兵を御所警備の御親兵として訓練し、近代国軍の基礎づくりを開始する。
翌三月、益次郎(ますじろう)は明治天皇行幸に際して大阪へ行き、月末の天保山での海軍閲兵と翌四月初旬の大阪城内での陸軍調練観閲式を指揮する。
同四月、西郷と勝海舟による江戸城明け渡しとなるも、旧幕府方の残党が東日本各地に勢力を張り反抗を続けており、情勢は依然として流動的であった。
益次郎(ますじろう)は岩倉具視に意見具申の手紙を送り、有栖川宮東征大総督府補佐として江戸下向を命じられ、海路で江戸に到着、軍務官判事、江戸府判事を兼任する。
益次郎(ますじろう)は京都に在った新政府の指示を受け、東叡山寛永寺に立て篭もりの姿勢を見せる彰義隊(しょうぎたい)の駆逐を敢行した上野戦争(うえのせんそう)を全権指揮する。
千八百六十九年(明治二年)、函館五稜郭で、榎本武揚らの最後の旧幕残党軍も降伏し、戊辰戦争は終結、名実ともに明治維新が確立し、新しい時代が開かれた。
千八百六十九年(明治二年)六月、大村益次郎(おおむらますじろう)は戊辰戦争での功績により永世禄千五百石を賜り、木戸孝允(桂小五郎)、大久保利通と並び、新政府の幹部となった。
同月、益次郎(ますじろう)は政府の兵制会議で大久保利通らと旧征討軍の処理と中央軍隊の建設方法について論争を展開している。
益次郎(ますじろう)と木戸孝允(桂小五郎)は、藩兵に依拠しない形での政府直属軍隊の創設を図る。
しかし意見を異にし、鹿児島(薩摩)・山口(長州)・高知(土佐)藩兵を主体にした中央軍隊を編成しようとする大久保利通らとの間で激論が闘わされた。
益次郎(ますじろう)は諸藩の廃止、廃刀令の実施、徴兵令の制定、鎮台の設置、兵学校設置による職業軍人の育成など、後に実施される日本軍建設の青写真を描いていた。
所が大久保利通は、戊辰戦争による士族の抵抗力を熟知していた為、「返って士族の反発を招く」と政治的に考えていた。
また、岩倉具視らは農民の武装化は「そのまま一揆につながる可能性排除できない」として慎重な態度をとっていた。
この兵制論争中、六月下旬段階での争点は、京都に駐留していた三藩の各藩兵の取り扱いをめぐってのものであった。
益次郎(ますじろう)を支持する木戸孝允(桂小五郎)も、論争に加わり援護意見を述べた。
しかし大久保の主張に沿った形で、京都駐留の三藩兵が「御召」 として東下する事が決定され、この問題については大久保派の勝利に終わった。
また会議では、先の陸軍編制法の立案者であり、大久保の右腕とも言える吉井友実も議論に加わり今後の兵卒素材についての議論も始まった。
大久保・吉井らの主張する「藩兵論」と益次郎(ますじろう)や木戸が主張する「農兵論(一般徴兵論)」が激しく衝突し、益次郎(ますじろう)の建軍構想はことごとく退けられる。
大久保が益次郎(ますじろう)の更迭を主張し始め、益次郎(ますじろう)は辞表を提出したが、木戸孝允(桂小五郎)の説得に応じて新たに設置される兵部省に出仕する。
兵部省に出仕した益次郎(ますじろう)は、兵部大輔(今の次官)に就任する。
当時の兵部卿(大臣)は仁和寺宮嘉彰親王で、名目上だけの存在であり、益次郎(ますじろう)が事実上近代日本の軍制建設を指導して行く。
益次郎(ますじろう)は戊辰戦争で参謀として活躍した門弟・山田顕義(やまだあきよし)を兵部大丞に推薦し、彼に下士官候補の選出を委任した。
千八百六十九年(明治二年)、着々と軍制建設を構築していた益次郎(ますじろう)は軍事施設視察と建設予定地の下見の為、京阪方面に出張する。
京阪方面が不穏な情勢となっていた為、木戸孝允らはテロの危険性を憂慮し反対したが、益次郎(ますじろう)はそれを振り切って中山道から京へ向かう。
九月四日、益次郎(ますじろう)は京都三条木屋町上ルの旅館で、長州藩大隊指令の静間彦太郎、益次郎(ますじろう)の鳩居堂時代の教え子で伏見兵学寮教師の安達幸之助らと会食する。
その会食中、益次郎(ますじろう)一行は元長州藩士の団伸二郎、同じく神代直人ら八人の刺客に襲われる。
静間と安達は死亡、益次郎(ますじろう)は重傷を負った。
その時の疵(キズ)は前額、左こめかみ、腕、右指、右ひじ、そして右膝関節に負い、特に右膝の疵が動脈から骨に達するほど深手であった。
兇徒が所持していた「斬奸状」では、益次郎(ますじろう)襲撃の理由が兵制を中心とした急進的な変革に対する強い反感にあった事が示されている。
益次郎(ますじろう)は一命をとりとめたが重傷で、九月七日に山口藩邸へ移送され、数日間の治療を受けた後、傷口から菌が入り敗血症となる。
同月二十日ボードウィン、緒方惟準らの治療を受け、大阪の病院(後の国立大阪病院)に転院と決まる。
十月一日、益次郎(ますじろう)は河東操練所生徒・寺内正毅(のち陸軍大将、総理大臣)、児玉源太郎(のち陸軍大将)らによって担架で運ばれる。
高瀬川の船着き場から伏見で一泊の後、翌十月二日に天満八軒屋に到着、そのまま鈴木町に入院する。
その大阪仮病院で、楠本イネやその娘の阿高らの看護を受けるが、病状は好転せず、蘭医ボードウィンによる左大腿部切断手術を受ける事となる。
だが手術は東京との調整に手間取って手遅れとなり、敗血症による高熱を発して容態が悪化し、十一月五日の夜に益次郎(ますじろう)は死去した。
益次郎(ますじろう)は学者・軍人としては超一級の逸材だったが、政治家としての度量には欠けていた。
為に益次郎(ますじろう)は、学者として理想の軍制改革を早急に具現化しようとして凶賊に倒れてしまう。
維新の十傑の一人に数えられながら、大政奉還後をわずか二年余り、戊辰戦争の終結からはわずか数ヶ月間生きただけで、益次郎(ますじろう)は命を落としている。
益次郎(ますじろう)の軍制構想・「農兵論」は、兵部大丞・山田顕義(やまだあきよし)らに拠って進められる。
千八百七十一年(明治四年)に徴兵規則(辛未徴兵)の施行によって軍制構想は実行に移されるが、同年内には事実上廃棄されている。
その後、兵部省(のち陸軍省)内の主導権が山田顕義から山縣有朋に移った後の千八百七十三年(明治六年)に国民皆兵を謳った徴兵令が制定される事となる。
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