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横井小楠(よこいしょうなん)

薩長土肥の維新四藩以外の肥後藩から、唯一「維新の十傑」に数えられた横井小楠(よこいしょうなん)と言う人物が居る。

小楠(しょうなん)が、復古功臣として維新政府の評価が高かったにも関わらず現代社会での知名度が無いのは、小説・映画・ドラマでの扱いが薄いからである。

つまり良く在る話だが、作家に拠る「面白可笑(おもしろおか)しい虚構」が混ざって評判をあげる現象が娯楽・英雄物語の虚(きょ)である。

熊本藩士の儒学者、横井小楠(よこいしょうなん)の本姓は北条流平氏で、正式な名のりは平時存(たいらのときひろ/ときあり)である。

横井家は桓武平氏北条嫡流得宗家・北条高時の遺児・北条時行の子が尾張国愛知郡横江村に住し、時行四世孫にあたる横江時利の子が横井に改めたを始まりとする。


小楠(しょうなん)は千八百九年(文化六年)、肥後熊本(現在の熊本県)城下の坪内町に、熊本藩中堅藩士(百五十石)・横井時直の次男として生まれる。

千八百十八年(文政一年)、九歳で藩校・時習館に入校、講堂世話役を経て千八百三十七年(天保八年)に十九歳で居寮長(塾長)となる。

二年後、二十一歳で藩命により江戸に遊学、幕府朱子学者林家の当主・林大学頭(はやしだいがくのかみ)の門下生となり、佐藤一誠、松崎慊堂らに会う。

また、小楠(しょうなん)は江戸滞在中に、幕臣の川路聖謨や水戸藩士の藤田東湖など、全国の有為の士と親交を結ぶ。

二年後の千八百四十一年(天保十二年)に、小楠(しょうなん)は熊本藩に帰藩するも、筆頭家老の松井父子を頭目とする「学校党」と対立する。

帰藩から二年後、小楠(しょうなん)は二十五歳で私塾を開き、その六年後に福井藩士・三寺三作が小楠(しょうなん)の私塾・小楠堂に学だ事から福井藩に出仕する。

農村の熊本沼山津に転居し、自宅を「四時軒(しじけん)」と名づけて住まうも、明治維新の立役者やのちの明治新政府の中枢の多くがここを訪問している。

千八百六十二年(文久二年)、小楠(しょうなん)は松平慶永(春嶽)の政治顧問として招かれ、福井藩の藩政改革に尽力する。

さらに小楠(しょうなん)は、江戸幕府三要職の一つ「政事総裁職」で在った松平慶永(春嶽)の助言者として幕政改革にかかわる。

千八百六十八年(明治元年)、鎖国体制・幕藩体制を批判していた小楠(しょうなん)は親交が在った倒幕派の要請で新政府に木戸孝允(桂小五郎)西郷隆盛大久保利通らと同格の参与として出仕する。

漸く小楠(しょうなん)持論の幕府・藩を越えた統一国家を目指したやさきであり、まだ京都御所が新政府の議事の場だった。

千八百六十九年(明治二年)、小楠(しょうなん)は参内の帰途、十津川郷士らにより、京都寺町通丸太町下ル東側(現在の京都市中京区)で暗殺された。

横井小楠(よこいしょうなん)は暗殺に倒れたが、その国家観は新政府に受け継がれて新国家体制に反映された。

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by mmcjiyodan | 2012-12-24 00:49  

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