自由民権運動(じゆうみんけんうんどう)
従来の通説では、この運動は千八百七十四年(明治七年)の民撰議院設立建白書の提出を契機に始まったとされ、千八百九十年(明治二十三年)の帝国議会開設頃まで続いた。
いわゆる自由民権運動は、明治維新後に政府の専制政治に反対して国会開設や立憲政治の確立など民主的な改革を求める大規模な運動として起こる。
薩長藩閥政府による政治に対して、憲法の制定、議会の開設、地租の軽減、不平等条約改正の阻止、言論の自由や集会の自由の保障などの要求を掲げていた。
発端は千八百七十三年(明治六年)に起こった「明治六年の政変」で征韓論を主張する板垣退助が、欧米視察から帰国した岩倉具視らの国際関係を配慮した慎重論に敗れた事である。
新政府が分裂し板垣は西郷隆盛らと伴に下野し、翌千八百七十四年(明治七年)、後藤象二郎、江藤新平、副島種臣らと愛国公党を結成する。
板垣退助は有司専制を批判すると伴に、民撰議院設立建白書を政府左院に提出して高知に立志社を設立する。
この民撰議院設立建白書が新聞に載せられた事で、自由民権運動が広く世間に知られるようになる。
翌千八百七十五年(明治八年)には全国的な愛国社が結成されるが、大阪会議で板垣が参議に復帰した事や資金難により消滅する。
また、後になり立志社が西南戦争に乗じて挙兵しようとしたとする立志社の獄が発生して幹部が逮捕されている。
千八百七十四年の建白書の直後に、江藤新平が士族反乱の佐賀の乱を起こし死刑と成るなど、この時期の自由民権運動は政府に反感を持つ士族らに基礎を置き、士族民権と呼ばれる。
武力を用いる士族反乱の動きは千八百七十七年(明治十年)の西南戦争まで続くが、士族民権(自由民権)は武力闘争と紙一重であった。
西南戦争後の千八百七十八年(明治十一年)に愛国社が再興し、千八百八十年(明治十三年)の第四回大会で国会期成同盟が結成され、国会開設の請願・建白が政府に多数提出された。
千八百八十一年(明治十四年)、参議・大隈重信は、政府内で国会の早期開設を唱えていたが、起こった明治十四年の政変で参議・伊藤博文らによって罷免された。
一方、政府は国会開設の必要性を認めると伴に当面の政府批判をかわす為、十年後の国会開設を約した「国会開設の勅諭」を出した。
この十年後の国会開設、政府は十年も経(た)てばこの運動も収まるだろうと「甘く思っていた」と言う。
しかし、ともかくこの「国会開設の勅諭」によって国会開設のスケジュールが公に具体的となった。
その後、国会期成同盟第三回大会で自由党が結成され、一方明治十四年の政変により下野した大隈重信は千八百八十二年(明治十五年)に立憲改進党の党首となった。
自由民権運動に好意的と見られて来た大隈をはじめとする政府内の急進派が一掃され、政府は伊藤博文を中心とする体制を固める事に成功する。
千八百八十二年(明治十五年)には板垣退助が保守主義者の暴漢に襲われた「岐阜事件」が発生するも命はとりとめ、傷も回復する。
伊藤博文らは、後藤象二郎を通じて自由党総理・板垣退助に洋行を勧め、民権運動家の内部分裂を誘う策も行った。
伊藤の目論みが功を奏し、板垣がこの洋行に応じると民権運動の重要な時期に政府から金をもらって外国へ旅行する板垣への批判が噴出する。
また、千八百八十四年(明治十七年)に自由党は解党し、同年末には立憲改進党も大隈らが脱党し事実上分解するなど民権運動は打撃を受けている。
千八百八十六年(明治十九年)に成ると、星亨らによる大同団結運動で民権運動は再び盛り上がりを見せ、中江兆民や徳富蘇峰らの思想的な活躍も見られる。
翌千八百八十七年(明治二十年)には更に、井上馨による欧化主義を基本とした外交政策に対し、外交策の転換・言論集会の自由・地租軽減を要求した三大事件建白運動が起り民権運動は激しさを増す。
これに対し政府が保安条例の制定や改進党・大隈の外相入閣を行う事で運動は沈静化し、千八百八十九年(明治二十二年)の大日本帝国憲法制定を迎える。
翌千八百九十年(明治二十三年)に第一回総選挙が行われ帝国議会が開かれ、以降、政府・政党の対立は議会に持ち込まれて行った。
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