小栗忠順(おぐりただまさ)〔二〕
小栗忠順(おぐりただまさ)の幕府軍備強化の中、千八百六十七年(慶応三年)十一月九日、十五代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が朝廷に「大政を奉還」をする。
大政を奉還し、政権を返上した慶喜は新設されるであろう諸侯会議の議長として影響力を行使する事を想定していた。
所が、討幕派の公家や薩摩藩が主導した十二月初旬の王政復古の大号令とそれに続く小御所会議によって慶喜自身の辞官納地(官職・領土の返上)が決定されてしまう。
この処置に旧幕府軍は、千八百六十八年(慶応四年)正月三日、鳥羽(京都市)で薩摩藩兵と衝突し、鳥羽・伏見の戦いと呼ぶ戦闘となった。
千八百六十八年(慶応四年)一月、忠順(ただまさ)四十二歳の時、鳥羽・伏見の戦いが行われて戊辰戦争が始まる。
伊勢から海路逃げ帰った将軍・慶喜の江戸帰還後、一月十二日から江戸城で開かれた評定に於いて、忠順(ただまさ)は榎本武揚(えのもとたけあき)、大鳥圭介、水野忠徳等と徹底抗戦を主張する。
この時、忠順(ただまさ)は、見事な挟撃策を提案している。
新政府軍が箱根関内に入った所を陸軍で迎撃、同時に榎本武揚率いる幕府艦隊を駿河湾に突入させて後続部隊を艦砲射撃で足止めし、箱根の敵軍を孤立化させて殲滅すると言うものだった。
後にこの策を聞いた大村益次郎(おおむらますじろう)は「その策が実行されていたら今頃我々の首はなかったであろう」と懼(おそ)れたと言う。
実際、この時点に於いて旧幕府軍は多数の予備兵力が残されていたが、十五代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)はこの策を採用せず恭順論を受け入れた。
忠順(ただまさ)はなおも抗戦を説くが、その努力も空しく十五代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)は抗戦を避ける選択をした。
徳川家定(とくがわいえさだ/十三代将軍)、徳川家茂(とくがわいえもち/十四代将軍)の二代の将軍に寵を得た忠順(ただまさ)も、十五代将軍・徳川慶喜(とくがわよしのぶ)には通じなかった。
徳川慶喜は朝廷から追討令を受けて謹慎し、幕府参与・大久保一翁(おおくぼいちおう・忠寛/ただひろ)や陸軍総裁・勝海舟(かつかいしゅう)の進言を受け入れて江戸城を無血開城し、戊辰戦争へと導いて江戸幕府は滅んだ。
千八百六十八年(慶応四年)一月十五日、抗戦派だった忠順(ただまさ)は江戸城にて老中・松平康英より御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡される。
忠順(ただまさ)は沙汰を受けて、同月二十八日に知行地の「上野国群馬郡権田村(現在の群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出した。
旧知の三野村利左衛門から千両箱を贈られ米国亡命を勧められたもののこれを丁重に断り、「暫く上野国に引き上げるが、婦女子が困窮する事があれば、その時は宜しく頼む」と三野村に伝える。
また二月末に渋沢成一郎から彰義隊隊長に推されたが、「将軍(徳川慶喜)に薩長と戦う意思が無い以上、無名の師で有り、大義名分の無い戦いはしない」とこれを拒絶した。
三月初頭、忠順(ただまさ)は一家揃って権田村の東善寺に移り住む。
当時の村人の記録によると、忠順(ただまさ)は水路を整備したり塾を開くなど静かな生活を送っており、農兵の訓練をしていた様子は見られない。
千八百六十八年(慶応四年)閏四月四日、忠順(ただまさ)は東山道軍の命を受けた軍監・豊永貫一郎、原保太郎に率いられた高崎藩・安中藩・吉井藩兵により、東善寺にいる所を捕縛される。
閏四月六日朝四ツ半(午前十一時)、取り調べもされぬまま、烏川の水沼河原(現在の群馬県高崎市倉渕町水沼1613-3番地先)に家臣の荒川祐蔵・大井磯十郎・渡辺太三郎と共に引き出され、忠順(ただまさ)は斬首された。
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