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小栗忠順(おぐりただまさ)〔一〕

落日の江戸幕府に在って徹底抗戦を主張し、必死で体制を立て直そうとした秀才・小栗上野介・忠順(おぐりこうずけのすけ・ただまさ)が居た。

幕末の幕臣(直参旗本)としては、小栗上野介・忠順(おぐりこうずけのすけ・ただまさ)は「類を見ない秀才」と評価は最上級に高い。

忠順(ただまさ)は江戸時代末期の幕府官僚で、勘定奉行兼陸軍奉行並の地位に在って、滅び行く江戸幕府を必死で支えた人物である。

忠順(ただまさ)は、三河小栗氏第十二代当主で、三河小栗氏は酒井氏と伴に徳川氏(三河松平氏)の庶家に属する氏族で、松平一族が常陸小栗氏と婚姻し家を興したとされる。

常陸小栗氏は桓武平氏・平繁盛(平国香の次男)流と伝えられ、国香は平高望(高望王)の長男である。

常陸国・小栗氏は鎌倉公方に叛して兵を挙げた「上杉禅秀の乱」に敗れ、その本貫地である小栗御厨荘を失って一族の一部が三河国に流れ着いた。

松平氏庶家・三河小栗氏が興った経緯だが、松平郷松平家の系統七代目・松平親長(まつだいらちかなが)が、常陸から三河に移り住んだ常陸小栗氏の末裔・小栗正重(おぐりまさしげ)の娘と婚姻して、生まれた男子・忠吉がその後の離婚で三河小栗氏を称した。


小栗忠順(おぐりただまさ)は、千八百二十七年(文政十年)、禄高二千五百石の旗本・小栗忠高の子として江戸駿河台の屋敷に生まれ、幼名は剛太郎を称す。

当初剛太郎(忠順)は、周囲からは暗愚で悪戯好きな悪童と思われていた。

だが、剛太郎(忠順)は成長するに従って文武に抜きん出た才能を発揮し、十四歳の頃には自身の意志を誰に憚(はばか)る事無く主張する様になった。

この結果は虚け者(うつけもの)・織田信長をほうふつさせ、行儀が良い子供よりも悪戯好きな悪童の方が、上手く育てば可能性を秘めているのかも知れない。

千八百四十三年(天保十四年)、忠順(ただまさ)は十七歳になり登城、幕府に出仕すると文武の才を注目され、若くして両御番(書院番と小姓組を併せて呼ぶ名称)となる。

しかし率直な物言いを疎(うと)まれて、忠順(ただまさ)は幾度か官職を変えられたが、その度(たび)に才腕を惜しまれて官職を戻されている。

千八百四十九年(嘉永二年)、忠順(ただまさ)は林田藩前藩主・建部政醇(たけべまさあつ)の娘・道子と結婚する。

千八百五十三年(嘉永六年)、忠順(ただまさ)は進物番出役に登用され、徳川家定(とくがわいえさだ/十三代将軍)に近侍する。

同千八百五十三年(嘉永六年)、アメリカ合衆国東インド艦隊司令長官・マシュー・ペリーが浦賀に来航、開国を迫る。

その後、来航する異国船に対処する詰警備役となるが、戦国時代からの関船しか所持していない状態ではアメリカと同等の交渉はできず、開国の要求を受け入れることしかできなかった。

この頃から忠順(ただまさ)は、外国との積極的通商を主張し、造船所を作ると言う発想を持ったと言われる。


千八百五十五年(安政二年)、忠順(ただまさ)二十九歳の時、父・忠高が医師の誤診により死去し、家督を相続する。

家督相続から四年、千八百五十九年(安政六年)には、井伊直弼(いいなおすけ)が大老に就任して「安政の大獄」を始め、世の中が騒然とする。

ぞの年(安政六年)、忠順(ただまさ)は従五位下豊後守に叙任され、千八百六十三年(文久三年)、上野介(こうずけのすけ)に遷任され、以後小栗上野介と称される。

千八百六十年(安政七年)、万延元年・遣米使節目付(監察)として正使(代表)の外国奉行・新見正興(しんみまさおき)が乗船するポーハタン号で忠順(ただまさ)は渡米する。

二ヶ月の船旅の後、新見正興(しんみまさおき)や忠順(ただまさ)の一行はサンフランシスコに到着する。

代表(正使)は新見正興(しんみまさおき)であったが、目付の忠順(ただまさ)が代表と勘違いされ、行く先々で取材を受けた。

勘違いの理由として、正使(代表)の新見を始めとして同乗者の多くは外国人と接した事がなく困惑していた

その中に在って、忠順(ただまさ)は詰警備役として外国人と交渉経験がある為に落ち着いており、その為代表に見えたとされる。

その後、忠順(ただまさ)はナイアガラ号(米国海軍の蒸気フリゲート艦)に乗り換え、大西洋を越えて品川に帰着する。

帰国後、忠順(ただまさ)は遣米使節の功により二百石を加増されて二千七百石となり、外国奉行に就任する。

千八百六十一年(文久元年)、ロシア軍艦が対馬を占領する事件が発生、忠順(ただまさ)は事件の処理に当たるも、同時に幕府の対処に限界を感じる。

忠順(ただまさ)は江戸に戻って、老中に対馬を直轄領とする事、今回の事件の折衝は正式の外交形式で行う事、国際世論に訴え、場合によっては英国海軍の協力を得る事などを提言したが容(い)れられず外国奉行を辞任する。

千八百六十二年(文久二年)、忠順(ただまさ)は再び登用され、勘定奉行に就任し幕府の財政立て直しを指揮する。

当時、幕府は海軍力強化の為四十四隻に及ぶ艦船を諸外国から購入しており、その総額は実に三百三十三万六千ドルに上った。

忠順(ただまさ)は、駐日フランス公使レオン・ロッシュの通訳メルメ・カションと親しかった旧知の栗本鋤雲を通じて、ロッシュとの繋がりを作り、製鉄所についての具体的な提案を練り上げた。

千八百六十三年(文久三年)、忠順(ただまさ)は軍事力強化の為に製鉄所建設案を幕府に提出する。

忠順(ただまさ)は幕閣などから反発を受けたが、十四代将軍・徳川家茂(とくがわいえもち)はこれを承認し、同年十一月二十六日に実地検分が始まり建設予定地は横須賀に決定された。

なお、建設に際し、多くの鉄を必要とすることから、上野国甘楽郡中小坂村(現在の群馬県甘楽郡下仁田町中小坂)で中小坂鉄山採掘施設の建設を計画し武田斐三郎などを現地の見分に派遣する。

見分の結果、鉄鉱石の埋蔵量は莫大であり、ついで成分分析の結果、鉄鉱石の鉄分は極めて良好であることが判明した。

但し近隣での石炭供給が不十分をであるので、暫(しばら)くの間木炭を使った高炉を建設すべしとの報告を受けている。

また千八百六十五年(慶応元年)には高炉で使用する木炭を確保する為、忠順(ただまさ)は御用林の立木の使用について陸軍奉行と協議をしている。

小栗忠順(おぐりただまさ)〔二〕】へ続く。

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by mmcjiyodan | 2013-02-26 19:55  

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