上野戦争(うえのせんそう)
上野戦争(うえのせんそう)は、旧幕臣等で構成する彰義隊と新政府軍の間で東叡山寛永寺を中心に起こった一連の戊辰戦争の一部を構成する戦闘行為である。
江戸開城以降、自暴自棄になった幕臣・旧幕府陸軍兵士等の放火や強盗が関東各地で起こり治安が悪化する。
事態の沈静化を願った幕府参与・大久保一翁(おおくぼいちおう・忠寛/ただひろ)、陸軍総裁・勝海舟ら旧幕府首脳は、彰義隊と同じく徳川慶喜の警護役をしていた旧幕府陸軍の幕臣・山岡鉄舟を輪王寺宮(公現入道親王)の側近・覚王院義観(かくおういんぎかん)と会談させ彰義隊への解散勧告を行った。
しかし東叡山寛永寺の執当職・覚王院義観(かくおういんぎかん)は、対面に訪れた山岡鉄舟を「裏切り者」と呼び説得に応じなかった。
東叡山寛永寺に立て篭もりの姿勢を見せる彰義隊に、京都の明治新政府は関東の騒乱の原因の一つを彰義隊の存在と考える。
新政府は彰義隊を討伐する方針を決定し、新たに京都から西郷隆盛に代わる統率者として大村益次郎が着任した。
大村益次郎は新政府の意向として、彰義隊に江戸警備の任務を与え懐柔しようとした勝海舟ら旧幕府首脳、また旧幕府首脳に江戸治安を委任していた東征軍の西郷隆盛から職務上の権限を取り上げる。
新政府側は、千八百六十八年五月一日に彰義隊の江戸市中取締の任を解く事を通告、新政府自身が彰義隊の武装解除に当たる旨を布告した。
この布告により、新政府軍と彰義隊との衝突事件が上野近辺で頻発する。
軍務局判事(兼江戸府判事)として江戸に着任していた大村益次郎の指揮で武力討伐が決定、同十四日に彰義隊討伐の布告が出され上野戦争(うえのせんそう)に到る。
上野戦争(うえのせんそう)時の新政府軍の指揮は、長州藩出身の新政府軍務局判事・大村益次郎がした。
大村益次郎は海江田信義ら慎重派を制して彰義隊の武力殲滅を主張し、上野を封鎖する為各所に兵を配備する。
さらに益次郎は、彰義隊の退路を限定する為に神田川や隅田川、中山道や日光街道などの交通を分断した。
大村益次郎は上野の三方に兵を配備し、根岸方面に敵の退路を残して逃走予定路とした。
作戦会議では、西郷隆盛は益次郎の意見を採用したが、薩摩軍の配置を見て「皆殺しになさる気ですか」と問うと、益次郎は「そうです」とにべもなく答えたと伝えられる。
五月十五日、新政府軍側から彰義隊へ宣戦布告がされ、午前七時頃に正門の黒門口(広小路周辺)や即門の団子坂、背面の谷中門で両軍は衝突した。
戦闘は雨天の中行われ、北西の谷中方面では藍染川が増水していた。
新政府軍は加賀藩上屋敷(現在の東京大学構内)から不忍池を越えて佐賀藩のアームストロング砲や四斤半砲による砲撃を行った。
対する彰義隊は東照宮付近に本営を設置し、山王台(現・西郷隆盛銅像付近)から応射した。
西郷隆盛が指揮していた黒門口からの攻撃隊が彰義隊の防備を破ると、彰義隊は逃げる様に寛永寺本堂へ退却するが、団子坂方面の新政府軍が防御線を破って彰義隊本営の背後に回り込んだ。
新政府軍側にも新式のスナイドル銃の操作に困惑するなどの不手際もあったが、彰義隊の抵抗は弱く、午後五時には戦闘が終結する。
彰義隊は戦闘意欲が低く、僅(わず)か一日の戦闘でほぼ全滅し崩壊、彰義隊の残党は根岸方面に敗走した。
戦闘中に江戸城内にいた大村益次郎が時計を見ながら新政府軍が勝利した頃合であると予測し、また彰義隊残党の敗走路も益次郎の予測通りであった。
逃走した彰義隊残党の一部は、北陸や常磐、会津方面へと逃れて新政府軍に抗戦し、転戦を重ねて箱館戦争に参加した者もいる。
彰義隊の生き残りは厳しく詮議された為、上野で戦死した事にして、故郷にも帰れず明治の時代を戸籍なしで送った者も居たと言う。
頭並の首魁の天野八郎は、投獄後数ヶ月で肺炎で死亡したが、江戸時代の牢獄は劣悪で生存率が極めて低く、改善されるのは明治の不平等条約改正運動以降の事である。
新政府がとった彰義隊への処遇は徳川方の諸隊の中で最も厳しいものだったが、反面、謹慎後に明治政府へと登用され、官吏や重役に就いた者も少なくない。
彰義隊は、幕府より江戸市中取締の任を受け江戸の治安維持を行ったが、上野戦争で新政府軍に敗れ解散した。
捕縛後の天野八郎の述懐の中に、戦闘中に隊を率い階段を駆け上がり後ろを見たら誰も居なかったと言うものがある。
彰義隊は江戸市民の旧幕府への追慕としての感情や威勢に立脚した集団で、新政府への対抗姿勢を示し新政府兵士へ集団暴行殺傷を繰り返した存在としては、覚悟が足りなかった。
イザ実際の戦闘に直面すると逃亡する者が多かった事が、一日の戦闘で彰義隊の崩壊となったとする説がある。
元々「武士道の精神」など怪しい綺麗事だが、この彰義隊の戦意やその覚悟の無さこそ、「武士道の精神」が幻想である事の証明では無いだろうか?
幕末当時、武士は列島に生ある者の僅か五パーセントを占める比率のみで、その内の多くがこの体たらくでは、とても「日本は武士道の国」とは言い難い。
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