福沢諭吉(ふくざわゆきち)〔二〕
千八百五十九年(安政六年)の冬、日米修好通商条約の批准交換の為に使節団が米軍艦ポーハタン号で渡米する事となり、その護衛として随行船・咸臨丸をアメリカ合衆国に派遣する事が岩瀬忠震(いわせただなり)の建言で決定した。
千八百六十年(万延元年一月十九日/西暦二月十日)、諭吉(ゆきち)は咸臨丸の艦長となる軍艦奉行・木村喜毅(きむらよしたけ/摂津守)の従者として、アメリカへ立つ。
後に諭吉(ゆきち)は、蒸気船を初めて目にしてからたった七年後に日本人のみの手によって我が国で初めて太平洋を横断したこの咸臨丸による航海を日本人の世界に誇るべき名誉であると述べているが嘘である。
実際に操船したのは、軍艦奉行海軍・木村喜毅(きむらよしたけ)が外洋航行に不慣れな日本人乗組員の航海技術を心配し、測量船フェニモア・クーパー号の艦長・大尉ブルックを始めとする米国軍人の乗組員だった。
諭吉(ゆきち)と咸臨丸の指揮官を務めた安房守・勝海舟(かつかいしゅう)はあまり仲が良くなかった様子で、晩年まで険悪な関係が続いた。
一方、摂津守・木村喜毅(きむらよしたけ/芥舟・かいしゅう)と諭吉(ゆきち)は明治維新によって木村が役職を退いた後も、晩年に至るまで親密な交際を続けていた。
帰国した年に、木村喜毅(きむらよしたけ)の推薦で中津藩に籍を置いたまま幕府外国方(現在の外務省)に出仕する事に成った事や戊辰戦争後に、芝・新銭座の有馬家中津屋敷に慶應義塾の土地を用意したのも木村である。
千八百六十四年(元治元年)には、諭吉(ゆきち)は郷里である中津に赴き、小幡篤次郎や三輪光五郎ら六名を連れて来た。
同年十月に諭吉(ゆきち)は、外国奉行支配調役次席翻訳御用として出仕し、臨時の「御雇い」ではなく幕府直参として百五十俵・十五両を受けて格が「御目見以上」となり、「旗本」となった。
千八百六十一年(文久元年)に諭吉(ゆきち)は、中津藩士・土岐太郎八の次女・お錦と結婚した。
その年の冬、竹内保徳を正使とする文久・遣欧使節(けんおうしせつ)を英艦・オーディン号で欧州各国へ派遣する事となる。
千八百六十二年(文久二年)一月一日(/西暦一月三十日)、諭吉(ゆきち)もこの遣欧使節(けんおうしせつ)に翻訳方としてこれに同行する事となった。
同行者には松木弘安・箕作秋坪がおり、諭吉(ゆきち)と行動を共にした。
シンガポールを経てインド洋・紅海を渡り、スエズ地峡を汽車で越え、地中海を渡りマルセイユに上陸。リヨン、パリ、ロンドン、ロッテルダム、ハーグ、アムステルダム、ベルリン、ペテルブルク、リスボンなどを訪れた。
ヨーロッパの病院や銀行・郵便法・徴兵令・選挙制度・議会制度などについて見聞した諭吉(ゆきち)は、この経験で日本に洋学の普及が必要である事を痛感する。
千八百六十五年(慶応元年)に始まる幕府の長州征伐の計画について、諭吉(ゆきち)は幕臣としての立場から方策を献言した。
その「長州再征に関する建白書」では、大名同盟論の採用に反対し、徳川幕府の側に立って、その維持の為には外国軍隊に依拠する事も辞さないと言う立場を採った。
この見通しによって、維新後の新政権の為に何の貢献もなしえない事が当然となり、この時期の徳川家への愛惜の情をうかがう事が出来る。
長州征伐で幕府が長州藩に敗北したと聞き、諭吉(ゆきち)はイギリスの鉄砲を取り寄せて分解し、初の西洋兵学書の翻訳「雷銃操法」を訳し始める。
続いて、戊辰戦争に際し仙台藩が諭吉(ゆきち)に翻訳せしめた「兵士懐中便覧」は奥羽越列藩同盟藩士の多くが読んだとされる。
千八百六十九年(明治二年)には、熊本藩の依頼で本格的な西洋戦術書「洋兵明鑑」を小幡篤次郎・小幡甚三郎と共訳している。
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