万延元年・遣米使節(まんえんがんねん・けんべいしせつ)〔一〕
両国の批准書交換は「ワシントンで行う」とされた為、江戸幕府は米国に使節団を派遣する事となった。
米国での批准書交換を提案したのは条約の交渉を行った外国奉行・岩瀬忠震(いわせただなり)であったが、安政の大獄で左遷となり、さらに蟄居をさせられた為、岩瀬は使節には加われなかった。
千八百五十九年(安政六年)九月、遣米使節の正使及び副使に、共に外国奉行及び神奈川奉行を兼帯していた新見正興(しんみまさおき)と村垣範正(むらがきのりまさ)が任命された。
外国奉行としては村垣が先任で在ったが、村垣は知行五百石、対して新見は知行二千石の格上大身で在った為、新見が正使に村垣が副使となった。
目付(監察官)には、秀才の誉れ高い小栗忠順(おぐりただまさ)が選ばれた。
本来目付は不正が無いか等を監察するのが任務であるが、非公式ではあるものの小栗には通貨の交換比率の交渉と言う役目あった。
新見、村垣、小栗の三人を正規の代表とする使節団七十七人は、ジョサイア・タットノール代将が司令官・ジョージ・ピアソン大佐が艦長を務める米国海軍のポーハタン号で太平洋を横断し渡米する事になる。
また、ポーハタン号の事故など万が一に備え、軍艦奉行・水野忠徳(みずのただのり)の建議で、正使一行とは別に護衛を名目に咸臨丸を派遣する事にした。
その咸臨丸の司令官には、軍艦奉行並で在った木村喜毅(きむらよしたけ/芥舟・かいしゅう)を軍艦奉行に昇進させ命じた。
軍艦奉行・木村喜毅は、咸臨丸乗組士官の多くを軍艦操練所教授の勝海舟(かつかいしゅう)をはじめとする海軍伝習所出身者で固める。
また、木村喜毅は通訳にアメリカの事情に通じた中浜万次郎(ジョン万次郎)を選んだ。
土佐国漁師・中浜万次郎は、漁に出て遭難、五日半の漂流後奇跡的に無人島・鳥島に漂着、米国捕鯨船に救助され米国に滞在する。
無学だった万次郎は、米国滞在中にオックスフォード学校やバーレット・アカデミーで英語・数学・測量・航海術・造船技術などを学んで帰国、英語・造船知識が豊富で鎖国中に在った日本では希少な存在だった。
そしてこの遣米使節には、後の慶応義塾創設者・福沢諭吉(ふくざわゆきち)が軍艦奉行・木村喜毅の従者として乗船している。
この幕府遣米使節・正使一行及び随行船・咸臨丸の乗員から、幕末の動乱期と維新後の新国家建設に力を発揮した人材が育ったのだ。
随行船・咸臨丸の指揮を執る軍艦奉行・木村喜毅は、外洋航行に不慣れな日本人乗組員の航海技術では咸臨丸の太平洋横断に不安ありと考える。
そこで技術アドバイザーとして、難破し横浜に滞在中だった測量船フェニモア・クーパー号の艦長で海軍大尉ブルックを始めとする米国軍人の乗艦を幕府に要請し、反対する日本人乗組員を説得して認めさせる。
【万延元年・遣米使節(まんえんがんねん・けんべいしせつ)〔二〕】に続く。
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