尊良親王(たかながしんのう)
尊良親王(たかながしんのう)は元弘の乱に父・後醍醐帝と共に笠置山に赴いたが、敗れて父と共に幕府軍に捕らえられ、土佐国に流された。
しかし尊良親王(たかながしんのう)は土佐を脱出して翌年には九州に移り、その後、建武の新政が開始されると京都に帰還している。
千三百三十五年(建武二年)、足利尊氏(あしかがたかうじ)が後醍醐天皇に反逆すると、上将軍として新田義貞(にったよしさだ)と共に討伐軍を率いるも敗退した。
この時は、義良親王(のりながしんのう)を奉じて奥州平定に任じていた北畠顕家(きたばたけあきいえ)が奥州平定の軍勢を率いて足利尊氏軍を追って上京する。
上京した顕家(あきいえ)の奥州軍は、新田義貞、楠木正成(くすのきまさしげ)、名和長年(なわながとし)の軍勢と合流して入京を目指す尊氏を摂津国で破り、尊氏(たかうじ)は九州へと落ち延びる。
翌年、九州に落ちた尊氏(たかうじ)が力を盛り返して上洛して来ると、尊良親王(たかながしんのう)は義貞(よしさだ)と共に北陸に逃れた。
しかし千三百三十七年(延元二年/建武五年)三月六日、尊良親王(たかながしんのう)が拠った越前国金ヶ崎城に足利軍が攻めて来る。
尊良親王(たかながしんのう)は義貞(よしさだ)の子・新田義顕(にったよしあき)と共に懸命に防戦したが、敵軍の兵糧攻めにあって遂に力尽き、三月六日に義顕(よしあき)や他の将兵と共に自害した。
自害の寸前、義顕(よしあき)は尊良親王(たかながしんのう)に落ち延びる事を勧めたが、尊良親王は同胞たちを見捨てて逃げる事はできないと述べて拒絶したと伝えられる。
参考リスト【正中(しょうちゅう)の変から室町幕府成立までの主な登場人物と主な出来事】<=クリックがお薦めです。
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