宗良親王(むねながしんのう)
千三百三十年(元徳二年)には天台座主に任じられるも、元弘の変により捕らえられ讃岐国に流罪となる。
父・後醍醐帝の鎌倉幕府倒幕が成功し、建武の新政が開始されると再び天台座主となる。
しかし足利尊氏(あしかがたかうじ)が反旗を翻し、建武の新政が崩壊して南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良(むねなが)を名乗り、大和国吉野(奈良県)の南朝方として活躍をするようになる。
千三百三十八年(暦応元年/延元三年)には、宗良親王(むねながしんのう)は義良親王(のりながしんのう)と伴に北畠親房(きたばたけちかふさ)に奉じられて伊勢国大湊(三重県伊勢市)より陸奥国府(福島県伊達郡霊山町)へ渡ろうとする。
しかし宗良親王(むねながしんのう)が乗船した船が、暴風に遭って座礁により遠江国(静岡県西部)に漂着し、井伊谷の豪族・井伊道政(いいみちまさ)のもとに身を寄せる。
もう一方の義良親王(のりながしんのう)の船は、その暴風で伊勢に漂着し、船団は離散している。
千三百四十年(暦応三年、興国元年)に足利方の高師泰(こうのもろやす)・仁木義長(にっきよしなが)らに攻められて井伊谷城が落城するも宗良親王(むねながしんのう)は脱出する。
余談だが、この井伊谷の豪族・井伊道政(いいみちまさ)の後裔が徳川家康(とくがわいえやす)の寵愛を得て、彦根藩・井伊家を再興した井伊直政(いいなおまさ)に、そして幕末の大老・井伊直弼(いいなおすけ)へと繋がって行く。
その後、越後国(新潟県)の寺泊(現、新潟県長岡市)や、越中国(富山県の放生津(現、富山県射水市)などに滞在した記録が在る。
千三百四十四年(興国五年/康永三年)に信濃国(長野県)伊那郡の豪族・香坂高宗(滋野氏支流望月氏の一族)に招かれ、大河原(現、長野県大鹿村)に入った。
南北朝時に「信濃宮」と呼ばれた宗良親王(むねながしんのう)を奉じて内ノ倉(現在の御所平)に仮御所を設け、三十年に渡って信濃の地に庇護した伊那郡の豪族・香坂高宗(こうさかたかむね)も南朝の忠臣である。
香坂高宗(こうさかたかむね)は信濃望月氏の一族とされ、信濃望月氏一族の多くが、信濃宮・宗良親王(むねながしんのう)に与して南朝方として戦っている。
参考リスト【正中(しょうちゅう)の変から室町幕府成立までの主な登場人物と主な出来事】<=クリックがお薦めです。
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