長州征討(ちょうしゅうせいとう)
この幕末に到る戦いは、長州征伐、長州出兵、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれる。
長州藩は尊皇攘夷・公武合体の倒幕思想を掲げて京都の政局に関わっていた。
しかし千八百六十三年(文久三年)に孝明天皇・公武合体派の公家・薩摩藩・会津藩による八月十八日の政変により京より追放される。
翌千八百六十四年(元治元年)には、八月十八日の政変で問われた藩主父子の赦免などを求めて長州軍が京へ軍事進攻する禁門の変が起こる。
その尊皇攘夷を掲げて幕府に反抗する長州藩に手を焼いた幕府は、長州征討(第一次)に踏み切った。
朝廷は京都御所へ向かって発砲を行った事を理由に長州藩を朝敵とし、将軍・徳川家茂に対して長州征討(第一次)の勅命を下す。
幕府は前尾張藩主・徳川慶勝を総督、越前藩主・松平茂昭を副総督、薩摩藩士・西郷隆盛を参謀に任じ、広島へ三十六藩・十五万の兵を集結させて長州へ進軍させる。
一方、長州藩内部では下関戦争の後に藩論が分裂して尊皇攘夷派が勢いを失い、保守派(俗論派)が政権を握る。
征長総督参謀の西郷隆盛は、政権を握った長州藩保守派(俗論派)と和解交渉に入る。
西郷隆盛は禁門の変の責任者である三家老(国司親相・益田親施・福原元僴)の切腹、三条実美ら五卿の他藩への移転、山口城の破却を撤兵の条件として伝え、長州藩庁はこれに従い恭順を決定する。
幕府側はこの処置に不満であったが、十二月には総督・徳川慶勝により撤兵令が発せられている。
この撤兵、幕府側の不満も然る事ながら、恭順した側の長州藩内尊皇攘夷派の不満を怨念として燃え上がらせる結果と成った。
千八百六十五年(慶応元年)長州藩では、松下村塾出身の高杉晋作らが馬関で挙兵して「元治の内乱」と呼ぶをクーデターを起こし保守派を打倒し、長州藩内に倒幕派政権を成立させた。
高杉らは西洋式軍制導入のため民兵を募って奇兵隊や長州藩諸隊を編成し、また薩長盟約を通じてエンフィールド銃など新式兵器を入手し、大村益次郎の指導下で歩兵運用の転換など大規模な軍制改革を行った。
また、長防士民合議書を三十六万部印刷し、士農工商隔(へだ)てなく領内各戸に配布する事で領民を一致団結させた。
十四代将軍・徳川家茂は大坂城へ入り、再び長州征討を決定する。
幕府は大目付・永井尚志が長州代表を尋問して処分案を確定させ、老中・小笠原長行を全権に内容を伝達して最後通牒を行うが、長州は回答を引き延ばして迎撃の準備を行う。
「四境戦争」とも呼ばれている第二次長州征討の戦争であるが、幕府は当初五方面から長州へ攻め入る計画だった。
しかし萩口攻めを命じられた薩摩藩は、土佐藩の坂本龍馬を仲介とした薩長盟約で密かに長州と結びついており、出兵を拒否する。
その為萩口から長州を攻める事ができず、四方面から攻める事になり「四境戦争」と呼ぶ事と成った。
千八百六十六年(慶応二年)六月七日に幕府艦隊の周防大島への砲撃が始まり、十三日には芸州口・小瀬川口、十六日には石州口、十七日には小倉口でそれぞれ戦闘が開始される。
長州側は、山口の藩政府の高杉晋作ら倒幕派政権の合議制により作戦が指揮された。
第二次の長州征討は第二次幕長戦争とも、また幕府軍が小倉口、石州口、芸州口、大島口の四方から攻めた為、長州側では四境戦争と呼ばれる。
この四境戦争、奇兵隊や長州藩諸隊を編成し新式兵器で武装した長州側に対し、幕府の出兵命令を拒んだ藩も多く、幕府軍側の士気が上がらない。
第二次征討は各攻め込み口で長州側が善戦し、幕府軍側は主要な長州藩内に攻め込めず、事実上幕府軍の全面敗北に終わる。
第二次征討の失敗によって、幕府の武力が張子の虎である事が知れわたると同時に、長州藩と薩摩藩への干渉能力を失う結果を招いた。
その為、この第二次征討の敗戦が徳川幕府滅亡をほぼ決定付けた事と成る。
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