松平定敬(まつだいらさだあき)
桑名藩第四代藩主・松平定敬(まつだいらさだあき)はいわゆる高須四兄弟の末弟で、兄に尾張藩主・徳川慶勝、一橋家当主・一橋茂栄、会津藩主・松平容保などがいる
松平定敬(まつだいらさだあき)は、美濃高須藩主(たかすはんしゆ)・松平義建(まつだいらよしたつ)の九男から桑名藩・松平久松氏(まつだいらひさまつうじ)に養子に入った人物で、松平容保(まつだいらかたもり)とは兄妹である。
徳川家康の母・於大の方の孫(家康の異父弟・松平定勝の三男)に当たる初代・松平定綱(まつだいらさだつな)の久松系松平家としては、定敬(さだあき)は十三代目に当たる。
大政奉還の後、鳥羽・伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まると、定敬(さだあき)は軍船・「開陽」で逃げ帰った徳川慶喜に従い、江戸の霊巌寺(江東区)にて謹慎した。
江戸城では小栗忠順(おぐりただまさ)ら抗戦派と大久保一翁と勝海舟(かつかいしゅう)ら恭順派が争い、恭順派により恭順工作が進められていた。
桑名藩は会津と並んで新政府側からは敵視されており、桑名の国元では新政府軍が押し寄せてくる懸念から先代当主の遺児・万之助(後の定教)を担いで恭順する事を家老達が決めていた。
そうした国許の情勢の為、徹底抗戦派と見られていた定敬(さだあき)の桑名帰国は困難な状況となり、桑名藩の分領である越後国柏崎へ赴った。
その後は柏崎から会津若松、仙台、箱館へ渡るなどしたが、千八百六十九年(明治二年)五月十八日には横浜へ戻り新政府に降伏した。
三年後の千八百七十二年(明治五年)一月六日に定敬(さだあき)は赦免され、その後は千八百七十六年(明治九年)十一月十一日に従五位に叙位されるを皮切りに、日光東照宮宮司就任するなどして最終従二位に昇叙している。
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