三官推任(さんかんすいにん)
これは朝廷に献金を行って受領名・備後守や三河守の官を得た父・織田信秀とは対照的である。
今川義元を破って後の信長は、受領名・尾張守を自称している。
足利義昭を奉じて上洛し、義昭を十五代将軍に据えた後も、信長は弾正少忠や弾正大弼と言った比較的低い官位に甘んじている。
弾正(だんじょう)は律令制下の八省の一つで、監察・警察・裁判機構の長官を意味する官職である。
本音で言えば実力主義の信長で、官位には余り執着しては居なかった。
しかし将軍・足利義昭の追放後、急激に信長の官位は上昇する。
千五百七十四年(天正二年)に参議に任官して以降わずか三年で、信長は従二位右大臣に昇進している。
これは武家としては源実朝以来の右大臣任官である。
また信長以前にこれより上位の官職に生前任官した武家は、平清盛(太政大臣)・足利義満(太政大臣)・足利義教(左大臣)・足利義政(左大臣)の四人しかいなかった。
しかし信長は千五百七十八年(天正六年)四月に右大臣兼右近衛大将を辞した後は官職に就かず、以後四年の長きに渡って散位のままだった。
この後二度に渡って信長の任官が問題となった。
先ずは、千五百八十年(天正九年)三月、朝廷より左大臣就任を求められるが、信長は、正親町天皇(おおぎまちてんのう)の譲位(退位)を交換条件と返答するものの、結局、実現はなされなかった。
千五百八十一年(天正十年)四月から五月と言う時期には、二度目の左大臣就任を求められる。
この二度目は、その直前の三月に信長が武田氏を滅ぼし、また北条氏(後北条)とも連携を強めていた事から、朝廷では当時これをもって信長が関東を平定したものと解釈していたからである。
五月には朝廷・武家伝奏の勧修寺晴豊が京都所司代・村井貞勝の邸を訪れ、ふたりの間で信長の任官について話し合いが持たれた。
堂上公家・勧修寺晴豊(かじゅうじはるとよ)は、この信長の任官の件についての話し合いを日記に書き記している。
この話し合いのなかで、征夷大将軍・太政大臣・関白の内どれかに信長が任官する三職推任(さんかんすいにん)が申し出された。
この三職推任(さんかんすいにん)と言う選択任官方式を申し出たのが朝廷側だったのか信長側だったのかをめぐっては、後世ふたつの説が対立する。
これが三職推任(さんかんすいにん)問題で、信長が将来的に朝廷をどのように扱おうと考えていたのかを考察する考える上での貴重な資料と成り得る。
信長の本意を解く重大な問題だが、勿論信長が朝廷に任官する意志が在ったかどうかも含め、信長からの正式な回答が判明する前に本能寺の変が起こった。
その本能寺の変の為、信長自身がどのような政権構想を持っていたのかは永遠の謎となってしまった。
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