秀吉の九州征伐
戦国時代後半の九州地方は、盛強な戦国大名三者による三つ巴の抗争が展開され、これを「大友・龍造寺・島津の三氏鼎立時代」などと呼称する。
三者の内から薩摩の島津氏が日向の伊東氏、肥後の相良氏、阿蘇氏、肥前の有馬氏、龍造寺氏などを下し、著しく勢力を拡大する。
さらに島津氏は、大友氏の重鎮・立花道雪の死により大友氏の支配がゆるんだ筑後の国人衆も傘下に収め、北九州地方への影響力も強めて、九州平定をほぼ目前にしていた。
大友宗麟(義鎮)は、島津氏の圧迫を回避する為に羽柴秀吉に助けを求める。
長宗我部氏に対する四国攻めの翌年、天下統一に避けては通れ無い勝ち残り組みの一家・九州の覇者・島津氏に対する秀吉の九州征伐が始まる。
千五百八十六年(天正十四年)の初期の秀吉方の主軸は黒田孝高(如水)で、千五百八十七年(天正十五年)秀吉自身の出馬は、いわば最後の総仕上げだった。
羽柴秀吉は九州で大友氏を追い詰めて九州統一を目前にしていた島津氏の島津義弘を相手に九州の役(きゅうしゅうのえき)を起こし、約十ヶ月掛けて島津氏を薩摩領近くの出水、川内まで追い落として降伏させている。
島津氏は九州の大部分を没収されたが、島津義弘に薩摩・大隅の二ヵ国を安堵され九州は平定された。
この羽柴秀吉の天下人を確実にさせた一連の四国攻め・九州征伐・小田原平定、実は作戦参謀役の弟・羽柴秀長が「軍師として発揮した力は大きい」と言われている。
千五百八十五年(天正十三年)【秀吉の四国攻め】
千五百八十七年(天正十五年)【秀吉の九州征伐】この頁
千五百九十年 (天正十八年)【秀吉の小田原平定】
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