上杉鷹山(うえすぎようざん/治憲・はるのり)
上杉鷹山(うえすぎようざん) / 上杉治憲(うえすぎはるのり)は、領地返上寸前の米沢藩再生の危機を救う江戸幕府屈指の名君・米沢藩上杉家の第九代藩主である。
その上杉治憲(うえすぎはるのり)は藩主隠居後の号である(鷹山ようざん)の方が著名である。
日向高鍋藩第六代藩主・秋月種美の次男、幼名は松三郎/勝興(治憲)で、母は筑前国秋月藩の第四代藩主・黒田長貞の娘・春姫だった。
母方の祖母の豊姫が米沢藩第四代藩主・上杉綱憲の娘で、この事が縁で十歳で米沢藩の第八代藩主・重定(綱憲の長男・吉憲の四男、春姫の従兄弟にあたる)の養子となる。
米沢藩主・上杉重定の養嗣子となって江戸桜田の米沢藩邸に移り、松三郎は直松に改名する。
千七百六十三年(宝暦十三年)、上杉直松は尾張出身の折衷学者・細井平洲を学問の師と仰ぎ、十七歳で元服して直丸勝興と称す。
元服に際し、直丸勝興は江戸幕府第十代将軍・徳川家治の偏諱を賜り、治憲と改名する。
四年後の千七百六十三年(明和四年)、上杉治憲は二十一歳で家督を継ぐ。
上杉家は、石高が十五万石(実高は約三十万石)でありながら初代藩主・上杉景勝の意向に縛られ、会津百二十万石時代の家臣団六千人を召し放つことをほぼせずに居た為、借財が二十万両に累積する財政危機に在った。
二十万両は現代の通貨に換算で「百五十億円から二百億円」と言い、経済規模が小さかった当時としては大金で、人件費が藩財政に深刻な負担を与えていた。
名家の誇りを重んずる故に豪奢な生活を改められなかった前藩主・上杉重定は、財政苦に藩領を返上して領民救済は公儀に委ねようと本気で考えたほどである。
新藩主に就任した治憲(鷹山)は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと厳しく対立する。
また、それまでの藩主では千五百両であった江戸仕切料(江戸での生活費)を二百十両程に減額し、奥女中を五十人から九人に減らすなどの倹約を行った。
ところがその為、千七百六十九年(明和六年)に江戸城西丸の普請役回避の幕臣への運動費が捻出できずに手伝いを命じられ、結果多額の出費が生じて藩財政の再生は遅れた。
治憲(鷹山)は藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせ、改革に反対する藩の重役が起こした七家騒動を退ける。
この治憲(鷹山)の施策と裁決で破綻寸前の藩財政は立ち直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。
言って置くが、藩政を画期的方向に導いた上杉治憲(鷹山)の藩政改革は、藩官僚にも相応の負担をさせた事で、最近の政権の官僚手付かず改革とは質が違う。
酷い話だが、官僚の専横を許して国民だけに負担を強いる手法は、悪魔に魂を売った政治家の所業である。
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皇統と鵺の影人
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