本多正純(ほんだまさずみ)
当時、父・正信は三河一向一揆で徳川家康に反逆し、それによって三河国を追放されて大和国の松永久秀を頼っていた。
正純(まさずみ)は、大久保忠世(おおくぼただよ)の元で母親と共に保護されていたようである。
父・正信が徳川家康のもとに復帰すると、正純(まさずみ)は共に復帰して家康の家臣として仕えた。
正純(まさずみ)が父・正信と同じく智謀家であった事から家康の信任を得て重用されるようになり、千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは家康に従って本戦にも参加している。
関ヶ原戦後、捕らえた石田三成の身柄を家康の命令で預かっている。
また、父・正信とともに徳川家の後継者候補に結城秀康の名を挙げて、これを推挙するも適わなかった。
千六百三年(慶長八年)、家康が征夷大将軍となって江戸に幕府を開くと、正純(まさずみ)は家康にさらに重用されるようになる。
千六百五年(慶長十年)、家康が将軍職を三男の秀忠(二代将軍)に譲って大御所となる。
家康と秀忠の二元政治が始まると、江戸の秀忠には大久保忠隣(おおくぼただちか)が、駿府の家康には正純が、正純の父・正信は両者の調停を務める形でそれぞれ補佐として従うようになった。
正純(まさずみ)は家康の懐刀として吏務、交渉に辣腕を振るい、俄然頭角を現して比類なき権勢を有するようになる。
千六百八年(慶長十三年)には、正純(まさずみ)は下野国小山藩三万三千石の大名として取り立てられる。
千六百十二年(慶長十七年)二月、正純(まさずみ)の家臣・岡本大八は肥前国日野江藩主・有馬晴信から多額の賄賂をせしめ、肥前杵島郡・藤津郡・彼杵郡の加増を斡旋すると約束する。
この斡旋話が詐欺であった事が判明し、大八は火刑に処され、晴信は流刑となり後に自害へと追い込まれる「岡本大八事件」が発生する。
大八がキリシタンであった為、これ以後、徳川幕府の禁教政策が本格化する事になる。
この千六百十二年(慶長十七年)十二月二十二日には築城後間もない駿府城が火災で焼失し、家康は再建がなるまでの間、正純(まさずみ)の屋敷で暮らしている。
この千六百十四年(慶長十九年)に成ると、政敵・大久保忠隣(おおくぼただちか)を「大久保長安事件」で失脚させ、幕府初期の政治は本多親子が牛耳るまでに成る。
また、千六百十四年(慶長十九年)からの大坂冬の陣の時、徳川氏と豊臣氏の講和交渉で、大坂城内堀埋め立ての策を家康に進言したのは「正純(まさずみ)であった」と言われている。
千六百十六年(元和二年)、家康と正信が相次いで没した後、正純(まさずみ)は江戸に転任して第2代将軍・徳川秀忠の側近となり、年寄(後の老中)にまで列せられた。
しかし先代からの宿老である事を恃み権勢を誇り、やがて秀忠や秀忠側近から怨まれるようになる。
なお正純(まさずみ)は、家康と正信が死去した後、二万石を加増されて五万三千石の大名となる。
千六百十九年(元和五年)十月に福島正則の改易後、亡き家康の遺命であるとして下野国小山藩五万三千石から宇都宮藩十五万五千石に加増を受けた。
この加増により、正純(まさずみ)は周囲からさらなる怨みを買うようになる。
ただし正純(まさずみ)自身は、政敵のうらみ嘆きや憤怒などの事情や心情をくみとり、「過分な知行として加増を固辞していた」と言う。
二代将軍・秀忠の本格治世と成り幕僚の世代交代が進んでいたが、正純(まさずみ)は幕府で枢要な地位に代わらず在った。
しかし、後ろ盾である家康や父・正信が没し、二代・秀忠が権力を握った事と、秀忠側近である土井利勝らが台頭してきた事で正純(まさずみ)の影響力、政治力は弱まって行った。
そこに将軍・秀忠やその側近達の陰謀ともされる、世に言う「宇都宮城釣天井事件」が起きる。
千六百二十二年(元和八年)八月、最上氏の改易に際して正純(まさずみ)は山形城の受取りに派遣され無事に城を接収する。
しかしその接収のさなか、伊丹康勝と高木正次が正純(まさずみ)糾問(きゅうもん)の使者として後を追って来た。
伊丹らは、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには秀忠暗殺を画策したとされる宇都宮城釣天井事件などを理由に十一ヵ条の罪状嫌疑を突きつけた。
正純(まさずみ)は最初の十一ヵ条については明快に答えたが、そこで追加して質問された三ヵ条については適切な弁明ができなかった。
その三ヵ条が城の修築において命令に従わなかった将軍家直属の根来同心を処刑した事、鉄砲の無断購入、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をした事だった。
正純(まさずみ)は「先代よりの忠勤に免じ、改めて出羽・由利郡に五万五千石を与える」と言う二代・秀忠の減封の代命を伊丹らから受ける。
この時、謀反に身に覚えがない正純は毅然とした態度で伊丹らの詰問に応じ、さらにその五万五千石を弁明の中で固辞し、秀忠の逆鱗に触れる事と成る。
伊丹らが正純の弁明の一部始終を秀忠に伝えると秀忠は激怒し、本多家は改易され、正純(まさずみ)ぼ身柄は出羽国横手・佐竹義宣に預けられる流罪となった。
突然の仕置きだったが、正純(まさずみ)には父・正信とともに徳川家の後継者候補に結城秀康の名を挙げた過去があり、二代・秀忠には遺恨が在ったのかも知れない。
正純の失脚により、家康時代に側近を固めた一派は完全に排斥され、土井利勝(どいとしかつ)ら秀忠側近が影響力を一層強める事になる。
本多正純(ほんだまさずみ)は、後に千石の捨て扶持を配所の横手於いて七十三歳で死去するまで与えられている。
【第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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