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片桐且元(かたぎりかつもと)〔二〕

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千六百十四年(慶長十九年)七月末、京都所司代・板倉勝重から家康への報告により、鐘銘、棟札、座席などの疑惑によるとする、方広寺鐘銘事件が起こる。

なんと南禅寺長老の文英清韓(ぶんえいせいかん)に選定させた方広寺鐘銘に在る銘文「国家安康」「君臣豊楽」の梵鐘の銘文が「徳川を呪い豊臣の繁栄を祈願する」と言う言い掛かりだった。

臨済宗の僧・金地院崇伝(こんちいんすうでん)本多正純を中心に調査が行われ、京都所司代・板倉勝重により大仏開眼及び供養は延期が決定される。

八月十三日の夜、大坂城下が静まらない中、片桐且元、大野治長、文英清韓などが駿府へ派遣される。

十七日に鞠子宿にて南禅寺僧・文英清韓(ぶんえいせいかん)が駿府奉行に囚えられる。

十九日の入府より、且元(かつもと)は、金地院崇伝ら相手への弁明に務めたが、家康との会見も無いまま日々を刻んで居た。

しかし、二十九日に駿府入りしていた大野治長の母・大蔵卿局は家康とすんなり対談となり、鐘銘の事も話題とならずに丁寧に扱われるなど分断策の布石も打たれていた。

九月八日、且元(かつもと)は崇伝より、大蔵卿局と共に、「大御所様の機嫌は悪くないので、大坂で話し合いした上で、以降も徳川家と豊臣家の間に疎遠や不審の無いような対策を決め、江戸に盟約書を参じてもらいたい。」と伝えられる。

九月十二日に且元(かつもと)は帰坂し、戦争を避ける為に、「秀頼の駿府と江戸への参勤。」、「淀殿を江戸詰め(人質)とする。」、「秀頼が大坂城を出て他国に移る。」の対策の中の一つを早急に選ぶ事を提案する。

この提案、徳川家に譲歩の姿勢が無いと見て取った且元自身によるものか、裏で崇伝らに半ば言い含められたものかは不明瞭である。

だが、且元(かつもと)はこの提案で大野治房(大蔵卿局の子/大野治長の弟)、渡辺糺(わたなべただす)と言った豊臣家の家臣達から家康との内通を疑われるようになる。

徳川方の豊臣分断策は成功し、暗殺計画も且元(かつもと)の知る所と成り、弟・貞隆、犬山城主・石川貞政らと共に大坂城を玉造門より退去する。

「不忠者である」として改易が決められ、大阪城を退去した且元(かつもと)は弟・板倉貞隆の茨木城へ入り、京都所司代・板倉勝重に援兵を要請した。

この日は、既に板倉勝重から且元(かつもと)の屋敷が打ち壊されたなどの報告を受けていた家康に依る徳川方からの大坂の陣の宣戦布告日でもある。

大坂の陣には家康に人質を送って従属し、徳川方として堺の救援をし、二条城の軍議に加わり、家康依り先鋒を命じられる。

大坂城の落城後、大野治長が秀頼や淀殿が山里丸にいる事を、彼らの助命嘆願の依頼と共に且元(かつもと)に知らせて来たので秀忠に通報するも助命叶わず豊臣氏は滅亡した。

且元(かつもと)前年より肺病を患い、家康より送られた家康の侍医・片山宗哲の診察を受けていた。

その且元(かつもと)が、大坂夏の陣後から二十日日ほどして、五月二十八日に京屋敷にて、六十歳での突如の死を遂げている。

「秀頼に殉死した」との説もあるが、定かではない。

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by mmcjiyodan | 2013-06-17 01:35  

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