本多忠政(ほんだただまさ)
千五百九十年(天正十八年)の小田原平定に、忠政(ただまさ)は十五歳で初陣し、武蔵岩槻城攻めで功を立てる。
千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、忠政(ただまさ)は徳川秀忠軍に属して中山道を進み、第二次上田合戦にも従軍する。
千六百九年(慶長十四年)六月に父・忠勝が隠居した為、忠政(ただまさ)は家督を相続して桑名藩の第二代藩主となる。
忠政(ただまさ)は大坂の陣にも参加し、冬の陣では千六百十四年(慶長十九年)十月十一日に徳川軍の先鋒を命じられる。
忠政(ただまさ)は大坂城包囲に於いては北側の天神橋方面に陣取っていた。
なお、冬の陣が終わって家康が帰途に着く際、当時の忠政(ただまさ)の所領・桑名で一泊している。
また、冬の陣の休戦和議締結で大坂城の堀を埋め立てた際、忠政(ただまさ)は埋め立て奉行を松平忠明達と担当している。
千六百十五年(慶長二十年)の夏の陣では、忠政(ただまさ)は京都御所の警備を勤め、その後に家康の軍勢と南下して五月七日に豊臣方の薄田兼相や毛利勝永らと戦った。
忠政(ただまさ)は薄田軍との合戦には勝利したが、毛利軍との戦いには敗れている。
この合戦で忠政(ただまさ)は、二百九十二の敵首級を挙げたと伝わっている。
大坂の陣の戦後には、それらの功績を賞された(ただまさ)は西国の押さえとして、千六百十七年(元和三年)七月十四日に姫路城主となって播磨十五万石を領した。
忠政(ただまさ)の正室は、非業の死を遂げた家康の長男・松平信康の次女・熊姫である。
また、忠政(ただまさ)の嫡男・忠刻(ただとき)の妻は、豊臣秀頼の妻だった千姫(せんひめ/天樹院)である。
しかし、千六百二十六年(寛永三年)に忠刻(ただとき)が早世した為、忠政(ただまさ)が千六百三十一年(寛永十六年)八月十日に姫路で五十七歳で死去する。
本多の家督は、忠政(ただまさ)次男の政朝(まさとも)が継いだ。
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皇統と鵺の影人
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