鳥羽天皇(とばてんのう/後に上皇・法皇)
子に崇徳天皇、近衛天皇、後白河天皇が居るが、「古事談」の記述では崇徳天皇(すとくてんのう)を第七十二代・白河天皇の実子としている。
千百三年二月(康和五年)に生まれた鳥羽天皇(とばてんのう)は、生後間もなく母・苡子が没した為、祖父の白河天皇(法皇)の下に引き取られて養育された。
鳥羽天皇(とばてんのう)は、誕生から七ヶ月で立太子され、父・堀河天皇の死後、五歳で即位、政務は白河法皇が執る。
千百十七年(永久五年)、鳥羽天皇(とばてんのう)十四歳の時に、白河法皇の養女である十六歳の藤原璋子(ふじわらのしょうし/待賢門院)が入内する。
翌千百十八年に鳥羽天皇(とばてんのう)は藤原璋子(ふじわらのしょうし)を中宮とし、以後五男二女を儲けるも長子・崇徳には白河天皇の実子説在り。
白河法皇が政務の実権を握り続ける中、千百二十三年(保安四年)二十歳の鳥羽天皇(とばてんのう)は長子とされる崇徳天皇(すとくてんのう)に皇位を譲位する。
この崇徳天皇(すとくてんのう)への譲位は、白河法皇が実権を握り続ける為に鳥羽天皇(とばてんのう)を退位させたとされている。
千百二十九年(大治四年)白河法皇が崩御し、今度は鳥羽上皇が二十六歳にして漸く院政を敷き政務の実権を握る。
鳥羽上皇は、白河法皇に疎んじられて謹慎して居た摂関家・藤原忠実(ふじわらのただざね)を呼び戻して娘の泰子(高陽院)を入内させるなど、院の要職を自己の側近で固める。
さらに鳥羽上皇は、故・白河法皇の後ろ盾を失った中宮・璋子にかわり、藤原得子(ふじわらのなりこ/美福門院)を寵愛して、崇徳天皇を退位させ、所生の皇子・体仁親王(なりひとしんのう/近衛天皇)を即位させる。
鳥羽上皇は崇徳、近衛、後白河の三代二十八年に亘り政務の実権を掌握し、千百四十二年(康治元年)には東大寺戒壇院にて受戒し、法皇となった。
鳥羽法皇は皇后・美福門院に動かされて崇徳上皇を疎んじ為それを原因として、法皇の崩御の直後に保元の乱が勃発する。
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