千姫事件(せんひめじけん)
千姫(せんひめ)は千六百三年(慶長八年)に七歳で豊臣秀頼と結婚し、大野治長(おおのはるなが)の母で千の乳母の刑部卿局と伴に大坂城に入る。
その後豊臣家と徳川家は対立し、千六百十五年(慶長二十年)の大坂夏の陣では、祖父・徳川家康の命により落城する大坂城から救出される。
この時千姫(せんひめ)は十九歳、秀頼との間に実子は無かった。
この救出時、家康は「千姫を助けた者に千姫を与える」と述べたとされ、千姫事件(せんひめじけん)の火種とされる。
大坂夏の陣の大坂城落城後、元号を元和(げんわ、げんな)に変え同千六百十五年は元和元年に改められる。
千姫(せんひめ)は大坂城落城の翌年、千六百十六年(元和二年)桑名藩主・本多忠政の嫡男・本多忠刻と結婚する。
この時、津和野藩主・坂崎直盛(坂崎出羽守/宇喜多忠家の長男)が輿入れの行列を襲って千姫(せんひめ)を強奪する計画を立てている事が発覚し、直盛は自害(もしくは家臣により殺害)、坂崎氏は改易処分となった。
坂崎直盛は家康の依頼を受け、火傷を負いながら千姫(せんひめ)を救出したにも関わらず、その火傷を見た千姫に拒絶された事で千姫奪取計画を立てる事件を起こしたと言われている。
この辺りは俗説多く、直盛の火傷には疑問があり、家康が「千姫(せんひめ)を助けた者に千姫を与える」と述べた事実はあるが、特に直盛に依頼した訳ではないとされる。
またこの救出劇、実際には千姫(せんひめ)は豊臣方の武将である堀内氏久に護衛されて直盛の陣まで届けられた後、直盛が秀忠の元へ送り届けたとする説が有力とされる。
つまり坂崎直盛は、決死の働きで千姫(せんひめ)を救出したのでは無く「脱出して来た千姫一行にめぐり合っただけ」と言う事に成る。
別の説として、秀頼死後に寡婦となった千姫(せんひめ)の身の振り方を家康より依頼された直盛が、公家との間を周旋し、縁組の段階まで話が進んでいた。
処が突然、直盛に話が無く姫路新田藩主・本多忠刻との縁組が決まった為、面目を潰された直盛が千姫奪回計画を立てたと言われる説も在る。
この千姫(せんひめ)を強奪する坂崎直盛の計画は幕府に露見、幕府方は坂崎の屋敷を包囲して、直盛が切腹すれば家督相続を許すと持ちかける。
だが、主君を切腹させる訳にはいかないと家臣が拒否した為、幕閣の甘言に乗った家臣が直盛が酔って寝ているところを斬首したとも伝わる。
他にも、立花宗茂の計策により、柳生宗矩の諫言に感じ入って自害したとも言われており、柳生家の家紋の柳生笠(二蓋笠)は坂崎家の家紋を宗矩が譲り受けたとも伝わっている。
大名の坂崎氏は、この騒動の結果断絶したが、次男・重行の孫・中村家初代の中村重豊が中村氏として坂崎氏の血脈を繋いだ。
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皇統と鵺の影人
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by mmcjiyodan | 2013-07-27 11:38