柳生宗矩(やぎゅうむねのり)
宗矩(むねのり)の父は、大和国柳生庄二千石の領主・柳生宗厳(やぎゅうむねよし/石舟斎)で、宗矩(むねのり)はその五男として生まれる。
宗矩(むねのり)の父・宗厳(むねよし/石舟斎)は、千五百六十五年(永禄八年)に兵法家・上泉信綱(かみいずみのぶつな)から新陰流の印可状を伝えられた剣術家でも在った。
母は奥原助豊の娘(於鍋、または春桃御前とも)で、兄に厳勝、宗章らがいる。
宗矩(むねのり)少年時代、豊臣秀吉の太閤検地の際に隠田の露見によって父・宗厳(むねよし/石舟斎)が失領し、宗矩(むねのり)も牢人となる。
宗矩(むねのり)は仕官の口を求め、秀吉の小田原平定(北条攻め)に陣借りで加わるも適わず、浪々を続けていた。
千五百九十四年(文禄三年)、宗矩(むねのり)は徳川家康に招かれて無刀取りを披露した父・宗厳(むねよし/石舟斎)の推挙により、漸く二百石で家康に仕える事と成る。
千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いでは、宗矩(むねのり)は家康の命を受け、筒井氏や大和の豪族と協力し、西軍の後方牽制によって功をたて、父の旧領・大和国柳生庄二千石を取り戻す事に成功する。
翌千六百一年(慶長六年)に宗矩(むねのり)は、後の二代将軍・徳川秀忠の兵法(剣術)指南役となり同年九月十一日に千石加増、合わせて三千石の大身旗本となる。
千六百十五年(慶長二十年)の大坂の役で宗矩(むねのり)は将軍・秀忠の下で従軍、秀忠の元に迫った豊臣方の武者七人(人数に異同あり)を愛刀で瞬く間に倒したと伝えられる。
なお、宗矩(むねのり)が人を斬ったと記録されているのは後にも先にもこの大坂の役の時だけである。
大坂の役の翌年、千六百十六年(元和二年)には、宗矩(むねのり)の友人でもあった坂崎直盛(出羽守)の反乱未遂事件(千姫事件)の交渉と処理に活躍し、坂崎家の武器一式と伏見の屋敷を与えられた。
なお直盛の自害のみで事を治めると約束した幕府は、その後、坂崎家を取り潰した為、その約束で直盛の説得を行った宗矩(むねのり)は結果的に直盛を陥れた事になる。
この坂崎直盛(出羽守)の反乱未遂事件(千姫事件)の処理に対する絵図を描いたのは立花宗茂(たちばなむねしげ)で、宗矩(むねのり)はその絵図に乗せられたとも言われている。
宗矩(むねのり)はそれを終生忘れぬ為なのか、元々の柳生家の家紋「地楡に雀」(われもこうにすずめ)に加え、副紋として坂崎家の二蓋笠(にがいがさ)を加えて使い続けている。
これが後に「柳生二蓋笠」と呼ばれる紋となった。
宗矩(むねのり)は坂崎の嫡子平四郎を引き取って二百石を与えて大和に住ませ、また二人の家臣を引き取り、その内一人には二百石を与えている。
千六百二十一年(元和七年)三月二十一日、宗矩(むねのり)は後の三代将軍となる徳川家光の兵法指南役となり、剣術(新陰流)を伝授する。
その後、三代将軍に就任した家光からの信任を深めて加増を受け、千六百二十九年(寛永六年)三月に従五位下に叙位、但馬守に任官する。
さらに宗矩(むねのり)は千六百三十二年(寛永九年)十月三日には、三千石を加増された後、同年十二月二十七日、初代の幕府惣目付(大目付)となり、老中・諸大名の監察を任とした。
宗矩(むねのり)はその後も功績をあげ、千六百三十六年(寛永十三年)八月十四日の四千石加増で計一万石を受けて遂に大名に列し、大和国柳生藩を立藩する。
さらに晩年に至る千六百四十年(寛永十七年)九月十三日、五百石の加増に続いて前年に亡くなった次男・友矩の遺領分二千石の加増もあり、所領は一万二千五百石に達した。
一介の剣士の身から大名にまで立身したのは、剣豪に分類される人物の中では、日本の歴史上、宗矩(むねのり)ただ一人である。
この寛永期前半頃、宗矩(むねのり)は友人の臨済宗の僧・沢庵宗彭(たくあんそうほう)を三代将軍・家光に推挙している。
三代将軍・家光に拝謁の結果、宗彭(そうほう)は宗矩(むねのり)の下屋敷に逗留し家光に近侍、お召しに応じて禅を説いた。
千六百四十六年(正保三年)、宗矩(むねのり)は江戸麻布日が窪にある自邸で死没する。
死後、その宗矩(むねのり)の死を惜しんだ三代将軍・家光の推挙により同年四月に従四位下を贈位された。
一万石の身で従四位下の贈位は異例であり、それだけ家光からの信頼が厚かった事を示すものと言える。
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皇統と鵺の影人
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