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立花宗茂(たちばなむねしげ)〔一〕

安土地桃山時代江戸時代に、大友氏の一族で九州の有力大名と成った立花氏が在る。

立花宗茂(たちばなむねしげ)は、九州の雄・島津義弘が一目置き、豊臣秀吉徳川家康にその勇猛振りを認めさせた男である。

そして立花宗茂(たちばなむねしげ)こそ、関ヶ原の合戦に西軍として参戦し一度徳川家康に改易されて後に旧領復帰を果たした唯一の伝説大名である。


立花宗茂(たちばなむねしげ)は、千五百六十七年(永禄十年)11月18日、大友氏の重臣・吉弘鎮理(よしひろしげまさ/のちの高橋紹運)の長男として生まれたとされる。

宗茂(むねしげ)の幼名は千熊丸で、後に彌七郎と改めている。

宗茂(むねしげ)は晩年の名乗りであり、幾度も名前を変えている。

ちょうどこの年には、大友家から毛利家に通じて謀反を起こし、両家の全面対決のきっかけを作ったり、反乱を起こして雷神・立花道雪に打ち倒された高橋鑑種(たかはしあきたね)が討伐される。

吉弘鑑理(よしひろあきまさ)の子である宗茂(むねしげ)の父・吉弘鎮理(しげまさ)が、高橋の名跡を継いで高橋鎮種(たかはししげまさ)、後に改名して高橋紹運(たかはしじょううん)を名乗る。

紹運(じょううん)の嫡男である彌七郎・・後の統虎(むねとら)=宗茂(むねしげ)もその高橋氏の跡取り(次期当主)として育てられる。

ところが、千五百八十一年(天正九年)、大友氏の庶流にあたる家臣・戸次鑑連(道雪)が男児の無かった立花氏の跡継ぎとして紹運の子・高橋統虎(むねとら、宗茂の初名)を養子に入れようと画策する。

紹運(じょううん)は宗茂(むねしげ)の優秀な器量と、高橋氏の嫡男であるという理由から最初は拒絶しようとした。

だが、共に大友氏の庶流にあたる道雪(どうせつ)が何度も請うて来た為に紹運(じょううん)も拒絶できず、宗茂を道雪の養子として出している。

このとき、宗茂(むねしげ)は実質的に立花家の家督を継いでいた道雪の娘・誾千代と結婚して娘婿となり、名も戸次統虎と改め、誾千代に代わって道雪から家督を譲られた。

しかし宗茂(むねしげ)は、誾千代とは険悪な仲だった上に子に恵まれず、道雪の死後程なくして、二人は別居したと伝えられる。


千五百八十一年(天正九年)七月、立花家の養子と成った宗茂(むねしげ)は養父・立花道雪と実父・高橋紹運とともに出陣し、秋月氏との嘉麻・穂波の戦い(石坂の戦いともいう)で初陣を飾る。

八木山の石坂の地で紹運は敵軍正面に弓・鉄砲・長槍隊を三段に布陣し、道雪の伏兵が側面より奇襲する戦法を採った。

この合戦で宗茂(むねしげ)は五十騎を率いて敵軍の側面を襲撃、騎射で秋月方の勇将・堀江備前の左腕に鏑矢を命中させた。

左腕の自由を奪われた堀江は大長刀を捨てて宗茂(むねしげ)に組みかかって来た。

しかし、相撲を得意とする宗茂(むねしげ)は彼を圧倒し、家臣の萩尾大学が堀江を討ち取って手柄を立てた。

同千五百八十一年の十一月にも同じ戦地で戦闘があった。

立花勢は朽網鑑康(くたみあきやす)の救援に向かう途中で、鑑康(あきやす)が秋月種実(あきづきたねざね)や、問註所統景(もんぢゅうじょすべかげ)の大叔父・問註所鑑景(もんぢゅうじょあきかげ)との原鶴の戦いで戦闘した。

その後に無事撤退との情報を知り撤退したが、その最中に宗茂(むねしげ)は秋月軍の追撃を受けた。

それからの過程は七月の戦闘とよく似ているが、両軍の激戦は立花三百余、秋月七百六十の合わせて一千を超える死傷者を出し、当地には千人塚の名が残された。

この戦を立花方は潤野原の戦い、秋月方は八木山の戦いと記した。


千五百八十二年(天正十年)四月、宗茂(むねしげ)は秋月氏・原田氏・宗像氏の連合軍二千との岩戸の戦いに五百の伏兵を率い武功を挙げた。

千五百八十四年(天正十二年)八月、養父・立花道雪と実父・高橋紹運は主家・大友氏(大友宗麟)の筑後奪回戦に参陣する。

この戦いでは、宗茂(むねしげ)は養父・道雪出陣後、一千程の兵力とともに立花山城の留守を預かる事となった。

この時、秋月種実率いる八千の兵が攻め寄せたが、宗茂(むねしげ)はまず謀叛の素振りをみせた櫻井中務・治部兄弟を粛清する。

その後宗茂(むねしげ)は兵を三隊に分けて果敢に城から出て、夜襲や火計で敵本陣に同士討ちを起こさせて秋月方を撃破する。

更に宗茂(むねしげ)は、西の早良郡の曲淵房助や副島放牛が拠る飯盛城など龍造寺氏の城砦を襲撃する。

この筑後奪回戦で、立花・高橋軍は龍造寺・島津勢を破って筑後国の大半を奪回した。

しかし、千五百八十五年(天正十三年)に養父・立花道雪が病死すると事態は急変し、筑後に於ける大友軍の将兵は一気に厭戦気分が高まってしまう。

そうして士気が低くなった千五百八十六年(天正十四年)、島津忠長・伊集院忠棟が五万を称する島津軍の大軍を率いて筑前国に侵攻する。

この島津氏の侵攻に脅威を感じた大友宗麟(おおともそうりん)は、中央の覇権を握った羽柴秀吉(豊臣賜姓)に救援を求め、秀吉の九州征伐が開始される。

秀吉の九州征伐は、千五百八十六年(天正十四年)七月から千五百八十七年(天正十五年)四月にかけて行われた、羽柴秀吉(豊臣賜姓)と島津氏との戦いの総称である。


この島津氏侵攻の初戦、宗茂(むねしげ)の実父・高橋紹運は、岩屋城にて島津の大軍と徹底抗戦の末に玉砕する。

この時、宗茂(むねしげ)も立花山城で徹底抗戦を行い、積極的に遊撃戦術を使った。

更に詐降の計を用いて島津本陣への奇襲を成功させ、原田種実隊二千を撃退し、秋月種長隊二千を奇襲するなど縦横無尽の働きを見せ二千近い首級を挙げている。

島津軍は撤退しを開始するが、この時宗茂は、友軍を待たずに島津軍を追撃して数百の首級をあげ、火計で高鳥居城を攻略、岩屋・宝満の二城を奪還する武功を挙げている。

これらの宗茂(むねしげ)の働きに、豊臣秀吉は大友宗麟から「義を専ら一に、忠誠無二の者でありますれば、ご家人(直臣)となしたまわりますよう」と要請された。


その後も宗茂(むねしげ)は、秀吉の九州征伐で活躍し、西部戦線の先鋒として四月初から肥後国の竹迫城、宇土城などを攻め落とす。

更に南下して島津忠辰の出水城を攻め落として川内に島津忠長を撃退し、秀吉に代わって伊集院氏、祁答院氏、入来院氏から人質をとり、大口城に新納忠元を包囲する。

九州征伐の戦後、秀吉は宗茂(むねしげ)の武功を認めて筑後柳川十三万二千石を与え、大友氏から独立したご家人(直臣)大名に取り立てた。

この時秀吉は、宗茂(むねしげ)を「その忠義も武勇も九州(鎮西)随一で、九州(鎮西)の逸物ある」と高く評価した。

その後も宗茂(むねしげ)は、九州征伐終息後の「肥後国人一揆」の武力制圧にも活躍して武功を挙げている。

立花宗茂(たちばなむねしげ)〔二〕】に続く。

第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人

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by mmcjiyodan | 2013-08-24 00:16  

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