宇都宮城・釣天井事件(うつのみやじょう・つりてんじょうじけん)
下野国宇都宮藩主で江戸幕府年寄の本多正純(ほんだまさずみ)が、宇都宮城に釣天井を仕掛けて二代将軍・徳川秀忠の暗殺を図ったなどの嫌疑を掛けられ、本多家は改易、正純が流罪となった事件である。
ただしこの嫌疑、実際には宇都宮城に釣天井の仕掛けは存在せず、改易は別の原因に依る仕組まれたものとされる。
本多正純の父・本多正信(ほんだまさのぶ)は将軍・秀忠付の年寄、正純は駿府の大御所・徳川家康の側近であった。
本多正信・正純父子は政敵・大久保忠隣を失脚させるなど、幕府内に強い影響力を持っていた反面、幕閣内では政敵も多かった。
だが、正信の存命中に於いて、正信に逆らえる者は実質おらず、家康も正信の事を、「自分の友」とまで言っていたほど信頼は厚く、その地位は揺るがなかった。
所が、千六百十六年(元和二年)、家康と正信が相次いで没すると、正純は二万石を加増されて下野小山藩五万三千石となり、将軍・秀忠付の年寄(後の老中)にまで列せられる。
しかし、正純は先代からの宿老である事を恃(たの)み権勢を誇り、やがて将軍・秀忠や秀忠側近から怨まれるようになる。
千六百十九年(元和五年)十月、福島正則の改易後、正純は亡き家康の遺命であるとして、奥平忠昌を下野宇都宮藩十万石から下総古河藩十一万石へ移封させ、自身を小山五万三千石から宇都宮十五万五千石への加増とした。
だが、このお手盛り三倍加増により、正純は将軍・秀忠やその側近達周囲から一層の反感を買う事になる。
ただし正純(まさずみ)自身は、政敵のうらみ嘆きや憤怒などの事情や心情をくみとり、「過分な知行として加増を固辞していた」と言う伝聞も在る。
そうした背景を抱えた本多正純は、千六百二十二年(元和八年)将軍・秀忠が家康の七回忌に日光東照宮を参拝した後、宇都宮城に一泊する予定で在った為、城の普請や御成り御殿の造営を行わせた。
四月十六日に将軍・秀忠が日光へ赴くと、秀忠の姉で奥平忠昌の祖母・加納御前から「宇都宮城の普請に不備がある」と言う密訴があった。
内容の真偽を確かめるのは後日とし、四月十九日、将軍・秀忠は「御台所が病気である」との知らせが来たとして予定を変更して宇都宮城を通過し、壬生城に宿泊して二十一日に江戸城へ帰還した。
八月、出羽山形藩・最上家親の改易に際して、正純は上使として山形城受取りの為同所に赴(おもむ)く。
その最中、将軍・秀忠は伊丹康勝と高木正次を糾問(きゅうもん)の使者に立てて出羽山形に赴(おもむ)く正純を追わせる。
将軍・秀忠は、鉄砲の秘密製造や宇都宮城の本丸石垣の無断修理、さらには宇都宮城の寝所に釣天井を仕掛けて将軍・秀忠を圧死させようと画策したなど、十一ヵ条の罪状嫌疑を正純へ突きつける。
秀忠の近持・伊丹康勝と高木正次が上使として正純の下に赴き、その十一ヵについて問い正すと正純は一つ一つ明快に回答した。
しかし伊丹康勝が追加で行なった糾問(きゅうもん)、将軍家直属の根来同心を処刑した事、鉄砲を無断で購入した事、宇都宮城修築で許可無く抜け穴の工事をした事の三ヵ条については回答する事ができなかった。
その為、宇都宮の所領は召し上げ、ただし先代よりの忠勤に免じて改易は赦し、改めて出羽由利郡に五万五千石を与えると減封の代命を伊丹らから受ける。
この時、謀反に身に覚えがない正純は毅然とした態度で伊丹らの詰問に応じ、さらにその五万五千石を弁明の中で固辞し、逆に正純の態度が将軍・秀忠の逆鱗に触れる事と成る。
伊丹らが正純の弁明の一部始終を秀忠に伝えると秀忠は激怒し、本多家は改易され、正純(まさずみ)の身柄は久保田藩主・佐竹義宣(さたけよしのぶ)に預けられ出羽国横手への流罪となった。
突然の仕置きだったが、正純(まさずみ)には父・正信とともに徳川家の後継者候補に結城秀康の名を挙げた過去があり、二代・秀忠には遺恨が在ったのかも知れない。
正純の失脚により、家康時代に側近を固めた一派は完全に排斥され、土井利勝(どいとしかつ)ら秀忠側近が影響力を一層強める事になる。
本多正純(ほんだまさずみ)は、後に千石の捨て扶持を配所の横手於いて仕置きから十五年後の千六百三十七年(寛永十三年)三月に七十三歳で死去するまで与えられ寂しく生涯を終えている。
【第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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