佐竹義重(さたけよししげ)
義重(よししげ)の時代に佐竹氏は江戸氏(旧・那珂氏)や小田氏などを次々と破り、常陸の大半を支配下に置く事に成功し、佐竹氏を戦国大名として飛躍させた。
滅亡した武田氏の浪人・小山田氏などを仕官させ家臣団を強化させていた事も理由のひとつである。
奥州国人の盟主たる地位を確立しつつあった佐竹義重は、自らの正室の甥にあたる伊達政宗と対立する。
千五百九十五年(天正十三年)、義重(よししげ)は蘆名氏や二階堂氏、岩城氏らと同盟を結んで、奥州覇権を狙う政宗と人取橋(現在の福島県本宮市)で対決した。
佐竹方は三万の大軍を率い、伊達方の十倍近い兵力を以ってこれを攻め、伊達方に多大な被害を与えた。
だが、佐竹方は一夜にして撤退を余儀なくされ、結果として伊達方の奥州覇権を強める契機となる。
しかし義重(よししげ)は戦国時代を通じて領国を拡大し、家督を譲った継嗣の義宣(よしのぶ)の時代に佐竹氏は豊臣秀吉の小田原征伐にも参陣して居る。
千五百八十六年(天正十四年)から千五百九十年(天正十八年)の間に、義重(よししげ)は隠居によって継嗣・義宣(よしのぶ)に家督を相続している。
家督相続以後、義重(よししげ)と義宣(よしのぶ)は二人三脚で家の隆盛に勤める。
当主・義宣(よしのぶ)は上洛中であったので、水戸城攻略は先代当主・義重(よししげ)が行う。
千五百九十年(天正十八年)十二月二十日、義重(よししげ)は水戸城を攻め落とし、同月二十二日には、府中(後の石岡市)に拠る大掾清幹(だいじょうきよもと)を攻めて大掾氏(だいじょううじ)を滅亡させている。
小田原征伐後の戦後処理で秀吉の太閤検地の結果、常陸国内でも土浦城、下館城一帯は結城氏の所領とされるも、常陸五十四万五千八百石の大名として認められた。
水戸城の江戸重通は小田原征伐に参陣しなかった為に所領を没収され、佐竹氏は居城を太田城から水戸城に移して居る。
千六百年(慶長五年)の関ヶ原の戦いに於いては、佐竹家ではどちらに与するか家中での意見がまとまらず、義宣(よしのぶ)は中立的な態度を取った。
関ヶ原の戦いの戦後処理が前年にはほぼ終了した千六百二年(慶長七年)三月、義宣(よしのぶ)は上洛し伏見城で徳川家康に拝謁している。
所が、凡そ二ヵ月後の五月八日、義宣は家康から突然出羽国への国替えを命じられ、七月二十七日付で石高の明示・内示もなく秋田・仙北へと転封される。
この突然の処置は、関ヶ原の戦いに於いて、家康を追撃する密約を上杉景勝と結んでいた事が発覚した為と言われている。
加えて、徳川氏の本拠地である江戸に近い常陸の佐竹氏は、同族の多賀谷領・岩城領・相馬領も勢力圏であり実質八十万石以上の勢力と目される事も要因と言える。
その上、佐竹氏は関ヶ原合戦に直接参加していない為に軍団が無傷で残っており、その観点での脅威だった。
処遇の際、細川忠興(ほそかわただおき)が「大々名の佐竹氏には出羽一国でなければ家臣を賄いきれず変事が起きるかもしれない」と進言した
しかし、徳川家康の側近だった本多正信・正純親子に「出羽一国を与えるのでは常陸と変わらないから半国で良し」と決められてしまう。
こうして佐竹氏は、平安時代後期以来の先祖伝来の地である常陸を去り、出羽半国の久保田藩と成った。
この半国処置には後日談があり、後に政争に負けた本多正純が宇都宮城釣天井事件で失脚した時、幕府は正純の身柄を佐竹氏に預け、出羽横手への流罪とした。
佐竹氏に取って仇がある相手である為「恩情をかける事はない」と幕閣首脳が考えたのだろうか。
権勢を誇った本多正純は、「横手城の一角でさびしく生涯を終えた」と伝えられる。
転封時点で明示されていなかった石高は、千六百六十四年(寛文四年)四月に日付で二十万五千八百石(実高四十万石)と決定された。
うち五千八百石は、千六百五年(慶長十年)十月十七日に追加で与えられた下野国河内郡・都賀郡の飛び地十一ヶ村分だった。
佐竹氏は、江戸時代を通じて久保田藩を支配する外様大名として存続し明治維新後は侯爵に叙せられている。
【第四巻】に飛ぶ。
皇統と鵺の影人
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