島村抱月(しまむらほうげつ)
抱月(ほうげつ)に後追い自殺した歌う人気女優・松井須磨子(まついすまこ)とは濃密な不倫関係に在った。
抱月(ほうげつ)は東京専門学校(現・早稲田大学)卒業し、「早稲田文学」誌の記者を経て、千八百九十八年(明治三十一年)に二十七歳で読売新聞社会部主任となる。
その後抱月(ほうげつ)は母校文学部講師となり、千九百二年(明治三十五年)から三年間、早稲田の海外留学生としてイギリスとドイツに留学する。
帰国後、抱月(ほうげつ)は早稲田大学文学部教授となり、以前手掛けて廃止になっていた「早稲田文学」誌を復刊して主宰し、自然主義文学運動の旗手の一人となる。
一年後の千九百六年(明治三十九年)に抱月(ほうげつ)は坪内逍遥とともに文芸協会を設立、三年後に協会附属の演劇研究所に於いて本格的に新劇運動をはじめる。
所が、妻帯者である抱月(ほうげつ)と研究所の看板女優の松井須磨子との不倫が醜聞となった事で坪内との関係が悪化する。
これに寄り、抱月(ほうげつ)は文芸協会を辞める事となり、演劇研究所を退所処分となった。
千九百十三年(大正二年)、演劇研究所退所を期に抱月(ほうげつ)は松井須磨子と伴に劇団・芸術座を結成し、翌年にはトルストイの小説を基に抱月(ほうげつ)が脚色した「復活」が大ヒットする。
各地で興行が行われ、須磨子が劇中で歌う「カチューシャの唄」はレコードにも吹き込まれて大ヒット曲になり、新劇の大衆化が進んだ。
その抱月(ほうげつ)の芸術座成功も束の間、僅か四年後には抱月(ほうげつ)はスペイン風邪で急死した。
須磨子は抱月(ほうげつ)の死後も芸術座の公演を続けたが、やがて抱月の後を追って自殺し、芸術座も解散になった。
詳しくは小論・【大正ロマンに観る好景気と風俗規範】を参照下さい。
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皇統と鵺の影人
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