伊藤野枝(いとうのえ)
野枝(のえ)は周船寺高等小学校を卒業して約九ヵ月間、家計を助けるため地元の郵便局に勤務しながら雑誌に詩や短歌を投稿する生活を送る。
そんな折、叔母(母の妹・代キチ)一家が東京から帰省して刺激を受け、野枝(のえ)は東京への憧れがつのり叔父・代準介に懇願、熱意に負け叔母一家は暮れに野枝を東京に迎えた。
上京の翌年、野枝(のえ)は猛勉強のすえ上野高等女学校(上野高女、現・上野学園)に一年飛び級で四年編入試験に合格する。
在学中、英語教師の辻潤と知り合うが、千九百十二年(明治三十五年)上野高女を卒業して帰郷すると親の決めた相手と野枝(のえ)の婚約が決まっていた。
隣村の末松家と、野枝(のえ)本人に相談もなく仮祝言まで済んでいた。
野枝(のえ)はしぶしぶ末松家に入って八日目に出奔、再び上京して在学中に思いを寄せていた辻潤と同棲する。
この野枝(のえ)との同棲に非難を浴びた辻は、千九百十二年(明治三十五年)四月末にあっさり教師の職を捨てて結婚生活に入った。
その年の十月頃から野枝(のえ)は平塚らいてう(らいちょう)らの女性文学集団・青鞜社に通い始める。
社内外から集まった当時のそうそうたる「新しい女」達、与謝野晶子・長谷川時雨・国木田治子・小金井喜美子・岡本かの子・尾竹紅吉・神近市子らと親交を深めて、野枝(のえ)は強い刺激を受けた。
野枝(のえ)は「機関誌・青鞜」に詩「東の渚」などの作品を次々発表、女流文筆家として頭角を現した。
この時期、米国のアナキスト、エマ・ゴールドマンの「婦人解放の悲劇」の翻訳をし、野枝(のえ)は足尾鉱毒事件に関心を深めた。
千九百十六年(大正五年)には、野枝(のえ)は大杉栄と恋愛を始める。
大杉栄は、妻・堀保子との結婚も続く状況下で、以前からの恋愛相手で在った神近市子から刺されるという「日陰茶屋事件」が発生、栄(さかえ)は同志から孤立する。
栄(さかえ)は野枝(のえ)との共同生活を始めるが、常に生活資金にも事欠いていた。
有名人のスキャンダルとして大衆の好奇の材料ともなった思想家・大杉栄と女性開放活動家・伊藤野枝(いとうのえ)を取り巻く動きについては、逐一新聞などで報道される加熱振りだった。
伊藤野枝は不倫を堂々と行い、結婚制度を否定する論文を書き、戸籍上の夫である辻潤(つじじゅん/翻訳家、思想家)を捨てて大杉栄の妻・堀保子(ほりやすこ/俳人)、愛人・神近市子(かみちかいちこ)と四角関係を演じた。
東京日日新聞の記者・神近市子(かみちかいちこ)は、愛人だった大杉栄が、新しい愛人・伊藤野枝に心を移した事から、神奈川県三浦郡葉山村(現在の葉山町)の日蔭茶屋で大杉を刺傷させる「日蔭茶屋事件」を起こし二年間服役する。
市子(いちこ)は出獄後文筆活動を始め、女性運動に参加して衆議院議員総選挙に当選、左派社会党議員として当選六回を重ねる政治家として戦後も活躍した。
野枝(のえ)は人工妊娠中絶(堕胎)、売買春(廃娼)、貞操など、今日でも問題となっている課題に取り組み、多くの評論、そして小説や翻訳を発表している。
同時代の人々に野枝(のえ)は、自らを主張するその自由獲得への情熱に対する憧れや賛美がドラマチックな感動を与えた。
知識人に於いては個人主義・理想主義が強く意識され、自由恋愛の流行による事件も数少なくはなく、新時代への飛躍に心躍らせながらも、同時に社会不安にも脅(おびや)かされる時代だった。
千九百二十三年(大正十二年)九月十六日、伊藤野枝(いとうのえ)は柏木の自宅近くから大杉栄(おおすぎさかえ)、その甥の橘宗一と共に憲兵に連行され殺害される。
殺害の実行容疑者として憲兵大尉の甘粕正彦(あまかすまさひこ)と彼の部下が軍法会議にかけられ、甘粕と森は有罪判決となるも極刑は免れて居る。
詳しくは小論・【大正ロマンに観る好景気と風俗規範】を参照下さい。
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