平塚らいてう(ひらつからいちょう)
平塚らいてう(ひらつからいちょう)はペンネームで、本名は奥村明(おくむらはる)と言う。
らいてう(らいちょう)の氏名表記は一定せず、漢字で「平塚雷鳥」と書く場合もある。
塩原で、森田草平との心中未遂事件(塩原事件)でその名が知られると本名の「平塚 明」を使用したり、或いは「平塚明子」で評論の俎上に上がる事もある。
らいてう(らいちょう)は、思想家・評論家・作家・フェミニスト、戦前と戦後に亘(わた)る女性解放運動・婦人運動の指導者である。
奥村明(おくむらはる)=平塚らいてう(ひらつからいちょう)は父の意思で、千八百九十八年(明治三十一年)に東京女子高等師範学校附属高等女学校に入学させられる。
入学した東京女子高等師範学校附属高等女学校は国粋主義教育のモデル校だった為、本人に依ると「苦痛」の五年間を過ごす結果となる。
明(はる)は千九百三年(明治三十六年)、「女子には女学校以上の学問は必要ない」と言う父を説得して日本女子大学校家政学部に入学する。
千九百六年(明治三十九年)、明(はる)は日本女子大学校を卒業する。
卒業した明(はる)は禅の修行をしながら、二松学舎、女子英学塾で漢文や英語を学び、千九百七年(明治四十年)にはさらに成美女子英語学校に通う様になった。
成美女子英語学校でテキストとして使われたゲーテの・「若きウェルテルの悩み」で初めて文学に触れ、明(はる)は文学に目覚める。
明(はる)は東京帝大出の新任教師・生田長江に師事し、生田と森田草平が主催する課外文学講座「閨秀文学会」に参加するようになった。
生田の勧めで処女小説「愛の末日」を書き上げ、それを読んだ森田が才能を高く評価する手紙を明に送った事がきっかけで、二人は恋仲になった。
奥村明(おくむらはる)=らいてう(らいちょう)は妻子を郷里に置いて上京した森田草平(もりたそうへい)と関係を持ち、栃木県塩原で心中未遂事件を起こし、一夜にしてスキャンダラスな存在となる。
らいてう(らいちょう)は、自らが創刊した「青鞜社」に集まる個人主義・理想主義の大正ロマンの女性達の活躍の場を「青鞜」の誌上に与えた。
らいてう(らいちょう)は五歳年下の画家志望の青年・奥村博史と茅ヶ崎で出会い、青鞜社自体を巻き込んだ騒動の後に事実婚を始めている。
その事実婚の顛末を、らいてう(らいちょう)は「青鞜」の編集後記上で読者に公表、両親にも「青鞜」の誌上で報告している。
その後のらいてう(らいちょう)は、伊藤野枝(いとうのえ)に「青鞜」の編集権を譲ったり、与謝野晶子(よさのあきこ)と「母性保護論争」を展開したり、「新婦人協会」を設立したりと活発に活動している。
なお、美濃垂井一万二千石を領した戦国武将・平塚為広(ひらつかためひろ)は、らいてう(らいちょう)の先祖にあたる。
詳しくは小論・【大正ロマンに観る好景気と風俗規範】を参照下さい。
◆【性文化史関係一覧リスト】をご利用下さい。
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皇統と鵺の影人
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