与謝野鉄幹(よさのてっかん)
千八百八十三年(明治十六年)、与謝野寛(よさのひろし)は大阪府住吉郡の安養寺の安藤秀乗の養子となり、千八百九十一年まで安藤姓を名乗る。
千八百八十九年(明治二十二年)、寛(ひろし)は西本願寺で得度の式をあげた後、山口県徳山(現在の周南市)の徳山女学校の教員となり、同寺の布教機関紙「山口県積善会雑誌」を編集する。
そして翌千八百九十年(明治二十三年)鉄幹の号をはじめて用い、さらに千八百九十一年に養家を離れ与謝野姓に復した。
鉄幹(てっかん)は徳山女学校で国語の教師を四年間勤めるも、千八百九十二年(明治二十五年)女子生徒・浅田信子との間に問題を起こし退職する。
この時女の子が生まれたが、その子は間もなく死亡し、次いで別の女子生徒・林滝野と同棲(後に結婚)して一子、萃(あつむ)を儲けた。
鉄幹(てっかん)は京都へ帰り、千八百九十二年(明治二十五年)十一月頃二十歳で上京し、落合直文の門に入る。
千八百九十五年(明治二十九年)、鉄幹(てっかん)は出版社明治書院の編集長となるかたわら跡見女学校に教えた。
千八百九十九年(明治三十二年)、東京新詩社を創立する。
同年秋、最初の夫人・浅田信子と離別し二度目の夫人・林滝野と同棲、麹町区に住む。
千九百年(明治三十三年)、鉄幹(てっかん)は「明星」を創刊する。
この「明星」の出版で、鉄幹(てっかん)は北原白秋、吉井勇、石川啄木などを見出し、日本近代浪漫派の中心的な役割を果たす。
そんな折、当時無名の若手歌人であった鳳晶子(ほうあきこ/のち鉄幹夫人)との不倫が問題視され、「文壇照魔鏡」なる怪文書で様々な誹謗中傷が仕立て上げられる。
だが、晶子の類まれな才能を見ぬいた鉄幹は、晶子の歌集「みだれ髪」の作成をプロデュースし、妻・滝野と離別する。
翌千九百一年(明治三十四年)、鉄幹(てっかん)は晶子(あきこ)と再婚し六男六女の子宝に恵まれる。
この千九百一年(明治三十四年)に鉄幹と離婚した滝野は、後に詩人、歌人の正富汪洋(まさとみおうよう)と再婚している。
「明星」に刊行した晶子(あきこ)の「みだれ髪」の名声は高く、「明星」隆盛のきっかけとなった。
結婚後の鉄幹(てっかん)は極度の不振に陥入り、千九百八年(明治四十一年)に「明星」は第百号をもって廃刊となる。
千九百十一年(明治四十四年)、鉄幹(てっかん)は晶子の計らいでパリへ行き、晶子(あきこ)も追いかけて渡仏、フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪する。
この奥州旅行で創作活動が盛んとなったのは晶子(あきこ)の方で、鉄幹(てっかん)は依然不振を極めていた。
鉄幹(てっかん)が再起を賭けた労作、「訳詞集・リラの花」も失敗するなど、栄光に包まれる妻・晶子(あきこ)の影で鉄幹(てっかん)は苦悩に喘いだ。
千九百十五年1(大正四年)の第十二回総選挙に、鉄幹(てっかん)は故郷の京都府郡部選挙区から無所属で出馬したが落選する。
千九百十九年1(大正八年)に、鉄幹(てっかん)は慶應義塾大学文学部教授に就任する。
その後千九百三十二年まで慶應義塾大学に在任し、水上滝太郎、佐藤春夫(さとうはるお)、堀口大学、三木露風、小島政二郎らを育てた。
千九百二十二年(大正十一年)に、鉄幹(てっかん)にとって有力な庇護者・森鴎外(もりおうがい)を腎萎縮、肺結核の為に失う。
千九百二十一年(大正十年)、鉄幹(てっかん)は建築家の西村伊作、画家の石井柏亭、妻の晶子(あきこ)らとお茶の水駿河台に文化学院を創設、男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させている。
鉄幹(てっかん)は気管支カタルがもとで死去する。
晶子は「筆硯煙草を子等は棺に入る名のりがたかり我れを愛できと」と言う悲痛な追悼の歌を捧げている。
詳しくは小論・【大正ロマンに観る好景気と風俗規範】を参照下さい。
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皇統と鵺の影人
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