佐藤春夫(さとうはるお)
千八百九十二年(明治二十五年)四月九日、和歌山県東牟婁郡新宮町(現・新宮市)に医師・佐藤豊太郎(号は鏡水)、政代の長男として生まれる。
春夫(はるお)の実家、佐藤家の家系は代々紀州の下里町で医を業とし、父・豊太郎に至って九代を数え、母・政代は旧紀州藩士で御庭奉行を務めた竹田氏の娘である。
春夫(はるお)は、艶美清朗な詩歌と倦怠・憂鬱の小説を軸に、文芸評論・随筆・童話・戯曲・評伝・和歌とその活動は多岐に及び、明治末期から昭和まで旺盛に活動した。
和歌山県立新宮中学校(現・和歌山県立新宮高等学校)在学中、佐藤潮鳴の筆名で校友会誌に「おらば籠」を発表する。
千九百八年(明治四十一年)には、「熊野実業新聞」に短歌六首掲載される。
「明星」に「風」の題で投稿した春夫(はるお)の短歌が石川啄木の選に入り、和貝彦太郎主宰の「はまふゆ」の同人となり、「馬車・食堂(短歌・詩)」を発表する。
この頃に父は病院を一時閉鎖し、北海道十勝国中川郡で農場を経営する。
春夫(はるお)は、「趣味」、「文庫」、「新声」、「熊野新報」の各紙に短歌や歌論を次々と発表し、千九百九年(明治四十二年)「すばる・創刊号」に短歌を発表する。
春夫(はるお)は、「すばる」で生田長江、与謝野寛(鉄幹)、石井柏亭を知り、また同盟休校事件の首謀者とみなされて無期停学を命じられた。
千九百十年(明治四十三年)、新宮中学校卒業後、春夫(はるお)は上京して生田長江に師事、与謝野寛(鉄幹)の新詩社に入る。
ここで同人の堀口大學を知り、堀口と共に旧制第一高等学校の入試に臨んだが試験を中途で放棄し、慶應義塾大学文学部予科に入学。
慶應義塾大学では当時教授だった永井荷風(ながいかふう)に学び、また生方克三を知る。
兄弟子に当たる久保田万太郎とは犬猿の仲であったが、荷風の死後明らかになった「断腸亭日乗」に、弟子の久保田と春夫を中傷する内容が書かれていた為、和解する。
春夫(はるお)は元芸術座の女優・川路歌子(遠藤幸子)と同棲し、本郷区追分町に新居を構えた。
千九百十七年(大正六年)に春夫(はるお)は神奈川県都筑郡中里村(現・横浜市)に移り、田園生活を始める。
ここで大杉栄(おおすぎさかえ)を知り親交を結び、この頃から散文詩に向かう一方、絵筆を執るようになり、「第二回・二科展」に「自画像」と「静物」の二点が入選する。
春夫(はるお)は「病める薔薇」の執筆を始め、翌年「黒潮」に発表、「第三回・二科展」に「猫と女の画」、「夏の風景」の二点が入選する。
春夫(はるお)は江口渙、久保勘三郎らと共に同人誌創刊の準備を行い「星座」を創刊、また江口を通して芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)を知り、六月には谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)を知る。
芥川の出版記念会「羅生門の会」に出席して開会の辞を述べ、「第四回・二科展」に「上野停車場附近」、「静物」の二点が入選する。
千九百二十一年(大正十年)に「殉情詩集」を発表し、春夫(はるお)は小説家、詩人として広く認められる。
この年、春夫(はるお)は友人である谷崎潤一郎(たにざきじゅんいちろう)から彼の妻・千代を譲り受ける約束をするが反故にされ潤一郎との交友を断つ。
千九百二十六年(大正十五年)に長谷川幸雄が門人として同居し、春夫(はるお)は谷崎潤一郎と交友関係を復活させる。
同年、三年間に長篇を二作ずつ書く約束で、菊池寛、宇野浩二、里見谆と共に報知新聞社客員記者となり、中国へ旅行する。
その後の千九百三十年(昭和五年)に潤一郎と千代の離婚成立し、春夫(はるお)は千代との再嫁の旨の挨拶状を、元夫の谷崎潤一郎と三人連名で知人に送る。
この挨拶状が有名になり、「細君譲渡事件」として新聞などでも報道されてセンセーショナルな反響を呼び起こした。
千九百三十五年(昭和十年)、春夫(はるお)は芥川賞が制定されると銓衡委員となり、及び日本文学振興会理事の一人となった。
この頃、春夫(はるお)がその作品を高評価した太宰治(だざいおさむ)が春夫(はるお)に師事している。
千九百三十七年(昭和十二年)五月、春夫(はるお)は文藝春秋社特派員として華北方面に出発し、九月に文学者従軍海軍班の一員として中国に赴く。
千九百四十一年(昭和十六年)五月、春夫(はるお)は太平洋戦争の文士部隊として中支戦線に従軍し、マレー及びジャワの南方方面へ視察旅行に出る。
終戦を迎えた翌年、春夫(はるお)は千九百四十六年(昭和二十一年)から文芸誌「方寸」、「風流」、「群像、「傳記」、「至上律」の創刊に助力し、翌年から毎年全国各地に旅行に出る。
千九百四十八年(昭和二十三年)から春夫(はるお)は日本芸術院会員となり、水上瀧太郎賞が設定されると銓衡委員となる。
春夫(はるお)は、芥川賞の復活に伴い銓衡委員となる。
千九百四十九年(昭和二十四年)、春夫(はるお)は慶應義塾大学で「近代日本文学の展望」を開講する。
千九百五十年(昭和二十五年)、春夫(はるお)は宮中歌会始に列席、千九百五十九年(昭和三十四年)の宮中歌会始には召人として選任され列席する
千九百六十一年(昭和三十六年)五月に、春夫(はるお)は東宮御所(皇太子御所)に招かれ文学を談義した。
千九百六十四年(昭和三十九年)、春夫(はるお)は慶應義塾大学で「詩学」を開講し、五月六日夕方頃に心筋梗塞を起こし、そのまま死去した。
詳しくは小論・【大正ロマンに観る好景気と風俗規範】を参照下さい。
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